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よみがえる1990年代のプロ野球

【90年代回顧録】ジャイアンツOBに聞く・清水隆行「個人的にはただただ必死にやった時期ではありましたがチームメートに恵まれ、あのメンバーでやれた喜びは強い」

 

1996年同期入団の仁志敏久とともにルーキーイヤーからレギュラーに定着し、「メークドラマ」でのリーグ優勝を経験する。その後、優勝から遠ざかったが、98年以降、2人は一、二番コンビを組み、超強力打線の口火を切る役目を担う。ミレニアムV、そして00年代にやってくる黄金期への転換期でもあった。

新人年の1996年は10月6日の中日戦[ナゴヤ。129試合目]に5対2で勝利し、チームとしては2年ぶり、自身初優勝を飾った。帽子を取り、スタンドの声援に応える胸番号「35」が清水


一生懸命やる毎日


 1990年代の前半は、私の高校、大学時代にあたります。出身は東京で高校、大学時代は埼玉で過ごしていましたから、ジャイアンツとライオンズの2球団(※いずれにも現役時代に在籍)は私にとって、特別な球団でした。学生時代によく見ていたこの2球団は、どちらもただただ強いチームという印象。ジャイアンツでは特に記憶に残っているのが、やはり94年の国民的行事『10.8』です。私は東洋大の3年生で、寮で仲間たちと一緒に見ていたのですが、最終戦(中日戦。ナゴヤ球場)で勝ったほうが優勝というしびれる展開を、当時はただただ「勝ってほしい」と思いながら、一ファンとして楽しみました。自分が同じ状況でグラウンドに立つことを考えると、ゾッとしますけど(苦笑)。

 翌95年のドラフトでジャイアンツから3位で指名してもらいました。プロのスカウトの方に注目してもらっているということは知らされていましたが、確実に指名されるかどうかは分からない立場。指名された瞬間は、素直にうれしかったです。ただ、浮かれ気分はすぐに消え去ります。キャンプ初日、「大変な所に入ってしまったな」と(苦笑)。すべてにおいて、今までに見たことのない状況。練習環境ももちろんですが、何と言っても選手のレベルです。

 96年のジャイアンツには野手では落合(落合博満)さん、川相(川相昌弘)さん、村田(村田真一)さんにシェーン・マック、若手では松井(松井秀喜)。投手には大エースの斎藤(斎藤雅樹)さんを筆頭に、槙原(槙原寛己)さん、ガルベスと錚々(そうそう)たるメンバー。まさにテレビで見ていた人たちで、実際に生で彼らのプレーを見ると、一つひとつの動きが想像をはるかに超えるレベルの高さでした。練習からしてそうなんです。今でも強烈に覚えているのが、打撃練習ではほとんどがサク越えだったこと。アマチュア時代にそんなのは見たことがありません。つまり、飛ばすコツが分かっている技術の高さなわけですが、ホームランバッターではない人たちもそうですから、「自分は大丈夫か? 」となるのも分かっていただけると思います。

 そういう選手に囲まれてのキャリアのスタートですから、果たして自分は何年プロの世界に生き残れるかな?  と早くも感じていました。一軍でプレーできる自分は想像できない。開幕一軍を目指そうとか、レギュラーを獲りたいとか、そんなことは考えている余裕もなく、目先のことを一生懸命やる毎日でした。

 そういう毎日を送って、開幕一軍に残していただけるわけですが、気づいたらそうだった、という感覚が表現としては正しいと思います。開幕カードは阪神戦(東京ドーム)で、4月5日に開幕し、私のデビューは翌6日に代打でした。結果はレフトフライですが、意外にも、緊張はしなかったんです。5万5000人のファンの方がスタンドを埋めていて、テレビで見ていた世界。その中で自分がプレーする。何か、ワクワクした気持ちが大きかったですね。

 序盤は代打7割、先発3割の割合で出場機会をいただいていましたが、やはり、余裕はありませんでした。毎日が勝負というか、明日のチャンスを得るために今日頑張って結果を出さなければいけない。結果が出なければ、次のチャンスが最後かもしれない。そういう覚悟というか、危機感を持ってプレーしていました。

 1年目の私個人の成績を振り返ってみると、107試合84安打11本塁打38打点、打率.293。21年、DeNA牧秀悟選手や、阪神の佐藤輝明選手が素晴らしい成績を残しましたが、そんな選手に比較すると大したことはない。でも、自分がこの成績を残すことは入団直後は想像できませんでした。一軍でプレーできるとも思っていなかったわけですから。あれよあれよという感じでしたけれども、よく頑張ったかな、と今は思います。同期入団の、仁志(仁志敏久)さんの存在も大きかったです。年齢も、(社会人出の)キャリアも仁志さんのほうが上ですが、同じ年に入って、一緒に一軍にいられたのは心強かったですし、相談もできたし、ありがたかったですね。

長嶋さんはポジティブ


 長嶋茂雄監督は雰囲気がほかの方とはまったく違いました。今まで見たことのないオーラをまとっていて、テレビとかで伝え聞いてはいたのですが、なるほど、こういうことなんだなと。そしてネガティブなことは決して言わない。入団1年目は優勝できましたが、あのときも確か7月(6日)時点で首位との差がその年最大の11.5ゲーム離されていて、報道では「優勝は絶望」だと。その後、追い上げていくのですが、そういう兆しが見え始めるずっと前から、長嶋さんは「最終的には秋が勝負になる」というお話をされていました。今振り返ると、すごいことだなと思います。

 実際、この年、夏を過ぎて急に負けなくなりました。前半戦は5連敗やら6連敗があるのですが、7月以降は、2連敗が1度(8月21〜22日の横浜戦)あるだけ。先制点を取ればほとんど負けないイメージですし、逆に先制点を取られても、引き離されないで粘っていれば、最終的に引っくり返せた。そして、斎藤さんと、ガルベスが先発の試合は、まず負けません。2人そろって最多勝(16勝)ですもんね。そして、松井が爆発的に打ったのも大きかったと思います。

 この年、ターニングポイントと言われるのは札幌・円山球場での首位・広島戦です。7月9日からの2連戦で、開始時点では11ゲーム差がありました。当時はこの試合が分岐点だ、なんて考えている余裕はありませんでしたが、確かに、振り返ってみると、大逆転へのきっかけの1つだったのかもしれません。

 というのも、この試合は初回に先制を許していて、2回は二死走者なしの状況。ここから9者連続安打で一挙7得点を奪って勝利します。翌日の試合も勝って、9ゲーム差。そこから負けない後半戦に入っていくわけですが、苦しい状況から優勝する時は、何か普通では起きないことが起こる。それがあの9連打、札幌・円山での試合だったのではないでしょうか。ちなみにこの試合ですが、2回の二死目を献上したのが私です。そこからあれよあれよという間に打者一巡し、そして9連打目は自分。1イニングに2つもアウトになれないと、2打席目は必死でした(笑)。

シュアな打撃で新人年は84安打。写真は1996年のメークドラマのターニングポイントと言われる札幌・円山での広島戦[7月9日]、2回二死からの9連打[7得点]の9本目のヒットを放つ清水


 確か、この試合が終わり、1週間したあとに長嶋さんが「松井が40本打ったら、ミラクルが起こる。メークドラマが完結する」と。監督は前向きな発言をずっとされてきましたから、これもその1つ。まだゲーム差がある状況で、マスコミの方も「? 」だったと思いますけど、チームは負けが込んでいた時も重たい雰囲気にならず、雰囲気は決して悪くありませんでした。そういうのもあって、実際に負けないチームとなっていったんだと思います。優勝を決めたのは129試合目(130試合制)。中日に5対2で勝って優勝を決めるわけですが、自分もホームランを打って、すごくうれしかったことを鮮明に覚えています。1年前には想像もできなかった瞬間で、「勝つのってこういう感じなんだ」と。でも、その後、2000年まで優勝できなかった。そこで初めて優勝するって大変なんだと知らされることになります。

 90年代後半は、勝つことの難しさを知る3年間となるのですが、私自身は二番に座るようになり、そして97年に入来祐作さんが入り、98年に高橋由伸が、99年には上原浩治二岡智宏が入り、チームが変わっていく過程にあったことを感じます。90年代ではないですけど、00年に高橋尚成、01年には阿部慎之助も入ってきた。この2000年前後というのは、個人的にはただただ必死にやった時期ではありますが、チームメートに恵まれ、雰囲気も良く、あのメンバーでやれた喜びは引退してプレーヤーではなくなってから、さらに強まったように思います。

PROFILE
清水隆行/しみず・たかゆき●1973年10月23日生まれ。東京都出身。右投左打。浦和学院高から東洋大を経て96年ドラフト3位で巨人入団。新人年から優勝に貢献し、3年目から二番打者に定着。規定打席以上で打率3割を5度マーク。2002年には最多安打とベストナインを獲得。09年西武に移籍し、同年限りで引退。11年から15年まで巨人コーチを務めた。通算1485試合出場、1428安打、131本塁打、488打点、90盗塁、打率.289。

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