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【90年代回顧録】バファローズOBに聞く・礒部公一「打って勝つのが近鉄のチームカラー。“故郷”のチームがないのは寂しい」

 

社会人の三菱重工広島から、1997年にドラフト3位で近鉄に入団。90年代の3シーズンは“いてまえ打線”に定着するための助走期間となった。左の強打者に“消滅”した球団への愛着を語ってもらった。

2年目の1998年には93安打。「いてまえ打線」の一角を担うようになる


ヤジが厳しい藤井寺


 1996年のドラフト会議翌日、三菱重工広島野球部の寮から空を見上げると、ヘリコプターが近づいてきました。乗っていたのは当時の佐々木恭介監督です。ドラフト3位ではありましたが、前年には福留孝介(PL学園高、現中日)に断られていましたからね。どうしても入団させたいという思いがあったのでしょう。熱意は十分に伝わりました。

 当時の近鉄は89年以来、優勝からは遠ざかっていましたが、やはり「いてまえ打線」の名残は確かにありましたね。僕は97年入団で、前年までの本拠地は藤井寺。この年から本拠地が大阪ドーム(現京セラドーム)となり、ユニフォームも従来のものから一新されました。

 1年目の思い出として挙げられるのが、オープン戦初戦の広島戦です。宮崎・天福球場での試合で、一番・捕手として出させてもらいました。当時の広島はオープン戦でも初戦からフルメンバーで、野村謙二郎さんや緒方孝市さん、金本知憲さんなどすごいメンバー。こんな人たちがひしめく世界で戦っていくんだと実感できた試合になりましたよね。

 開幕一軍に入り、デビューしたのは4月9日のロッテ戦(大阪ドーム)でした。9回に水口栄二さんの代走として途中出場して、10回からマスクをかぶって。佐野重樹さん、赤堀元之さんとバッテリーを組みました。結局、延長12回で3対3の引き分けに終わったんですけど、頭の中が真っ白になりながらリードしていた記憶があります。結局、1年目は62試合に出場して31安打。しっかりと一軍に帯同できたのは自信になりましたし、この経験が翌年以降につながっていったと思います。捕手でも外野手でも出場できましたし、ベンチに「使い勝手がいい選手だな」と思われたことはプラスでした。

入団当初はキャッチャーを務めていたが、2年目以降は打力を生かして外野を守ることも増えた


 当時のメンバーで印象深いのがタフィ・ローズ、そして中村ノリ(中村紀洋)ですね。ローズは一般的に「豪快」というイメージがあると思いますが、僕のイメージは「繊細」。当時は体の線も細かったですし、中距離打者のイメージ。それが優勝した2001年には当時日本タイ記録の55本塁打ですから驚きです。研究熱心で、ときには僕のバットを「使わせてくれ」と言ってきたり、日本で成功するために必死だった印象が強いです。

 中村ノリは高卒入団でしたが、僕と同学年なんです。プロ4年目の95年にレギュラーに定着すると、僕が入団した年には、巨人に移籍した石井浩郎さんの着けていた背番号「3」を継承するなど、すでにチームの中心選手でした。フルスイングのイメージが強く、豪快なイメージが先行しますけど、春季キャンプではバットを握るよりもまずは徹底してノックを受け、下半身をつくっていく姿が印象的な男でした。そんな2人の後ろを打つようになったのは優勝した01年。必ずどちらかが塁上にいるという状況だったから大変で(苦笑)。この年に95打点というキャリアハイの数字を残せたのは、前を打つ2人のおかげでした。

 話は藤井寺に戻ります。本拠地を移転したとはいえ、まだ年間数試合は藤井寺でもホームゲームを行っていまして、練習も藤井寺でした。ウワサどおり、ヤジは厳しかった(笑)。南大阪の土地柄もあり、気性の荒い方が多かったのでしょう。広島出身のルーキーは洗礼を浴びましたね。

 また、古い球場ということもあり、一、二軍のロッカーを両方使いましたけど、とにかく格差がすごかったです。二軍のロッカーは狭くて物がほとんど置けないですし、とにかく人でギュウギュウ。その経験をしたことで、「一軍に残りたい」という気持ちがより強くなりました。

 グラウンド自体も藤井寺から大阪ドームになって、両翼が10メートルくらいは広くなったのが実感としてありました。だから内外野の連係プレーを見直すなど、野球の質が変わっていったと思います。ナゴヤドーム、福岡ドームもそうですけど、全国にドーム球場が増え、野球界にとっての転換期でもありました。

 ただ、近鉄自体は守って勝つより、打って勝つのがチームカラーです。バッテリーのミーティングはもちろんやりましたけど、やはりプレースタイルは攻撃陣が打って投手陣を助ける。この伝統スタイルが大きく変わることはありませんでした。

常に優勝争いできれば


 本拠地の移転、ユニフォームの変更などは親会社の意向が働いたのだと思います。振り返って思うことですけど、球団の経営状態もきつくなっていったころだったと。球団名も99年から「大阪近鉄バファローズ」に変更になりました。そして胸マークは『Kintetsu』から『Osaka』に。関西、大阪と言えば阪神タイガースという超人気チームが存在しましたけど、近鉄も「大阪」をつけることで地元に根ざしたチームを目指そうとしたのでしょう。

 ただ、大阪ドームに移転したからといって、球場の雰囲気が変わったというわけではありません。お客さんの数もそう多くはなかったですし、グラウンドから一塁側のスタンドが近かったこともあり、相変わらず汚いヤジが飛んできました。優勝した01年にしても、開幕当初からお客さんがたくさん来たわけではありません。勝ちを重ねることでお客さんがドンドン来るようになった感じで。優勝を決めた試合では、「近鉄ファンってこんなにいたんだ……」って思ったほどですから。これが12年ぶりのリーグ優勝でしたけど、チームが強くてコンスタントに優勝争いができていれば、球団も潤って消滅することもなかったかなと痛感します。

 今になって感じるのは、自分の“故郷”というべきチームがないという寂しさです。石井琢朗さんや相川亮二は他球団へ移籍し、違うチームでコーチをやっていても、今こうして古巣のベイスターズに戻っているじゃないですか。僕は球団再編により近鉄から楽天に移籍し、09年までプレーしました。翌年から8年間、コーチを務める機会に恵まれたんですけど、そんな僕さえ所詮は“外様”なんですよ。楽天という球団をのちに“故郷”と呼べるのは、生え抜きとして10年間プレーした島内宏明岡島豪郎であり、ヤクルトに移籍はしましたけど、嶋基宏にとってもそういう存在でしょう。

 関東よりも北のファンの方は「楽天の礒部」というイメージを持っている方が多いかもしれませんが、関西に行くといまだに「近鉄の礒部」として覚えてくれている方がいらっしゃって、本当にうれしいです。先日、ある取材で21年の「バファローズ優勝」について語ってほしいという依頼を受けました。その際に僕がお願いしたのは「近鉄バファローズは04年限りで“消滅”しています。それを前提でお話しすること」でした。オリックスの優勝はもちろん素晴らしいことなのですが、現役時代は常に戦っていたライバルチームだったので、「バファローズOBとして」と質問されると、ちょっと違和感があります(苦笑)。それだけ僕にとっての「近鉄バファローズ」は大きな存在だったんです。

PROFILE
礒部公一/いそべ・こういち●1974年3月12日生まれ。広島県出身。右投左打。西条農高、三菱重工広島を経て、97年ドラフト3位で近鉄入団。2001年には主力としてリーグ優勝に貢献。03年に選手会長に就任すると、翌年の球界再編時には球団と労使交渉も。新たに誕生した楽天でも初代選手会長、主将を務めた。09年限りで現役を引退すると、翌年から17年まで楽天コーチを歴任。現野球解説者。

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