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【90年代回顧録】カープOBに聞く・西山秀二「90年代に痛い目に遭い、工夫したことが最近の3連覇につながっている」

 

カープの1990年代は、序盤の91年に強力投手陣で優勝、中盤は強打で優勝争いしたが果たせず、終盤はさまざまな新制度の影響もありチーム力が低下した10年だった。レギュラー捕手だった西山秀二氏に、当時を振り返ってもらった。

1990年代のほとんどを主戦捕手として戦った西山。名捕手の達川光男と比較されたことへの反発を力にした


91年の競って守る野球は、打てなかったから


 僕の場合は、1987年の途中に南海からトレードで広島に行ったんですね。最初に挨拶に行ったときに、球場前で高橋慶彦さんにばったり会って。一緒にいたフロントの方が「今度トレードで来た西山というヤツや。よろしく頼むぞ」と言ったら、慶彦さんが「じゃあ、俺が連れて行ってやろう」と、そのままロッカーに連れて行ってくれたんですよ。そうしたらキヌさん(衣笠祥雄)やらペイさん(北別府学)やら大野さん(大野豊)やら、そうそうたるメンバーがおられて。「うわー、テレビで見る人ばっかりだ」と思ったのが第一印象でした。

 別の日に広島市民球場に行ったときに、当時はライトスタンドの外のところに選手の車が並んでいたんですが、ベンツとポルシェがズラッとあって、「さすがセントラルやな」と思ったのを覚えています。当時の南海は外車に乗っている人もいなかったから。

 二軍からのスタートでしたが、当時は二軍の寮が建て替えれられたばっかりで、ウエート・トレの設備とか、トレーナー室の設備とかが、一軍よりも全然よかったです。練習は、トレードされてすぐはそんなにキツい感じはなかったですよ。それが大下(大下剛史)さんがヘッドコーチになって(89年)、急にキツくなった。そこから2、3年がムチャクチャにキツかったですね。そのうちそれが当たり前になりましたが……。いや、まあ慣れてもしんどいもんはしんどかったですけどね(笑)。

 一軍で出始めたのは、ちょうど優勝した91年ですかね。たまたま左ピッチャーからよく打てて。相手が左だったら、「ライト守れ」「サード守れ」といろんなところを守っていました。大下さんから、「(打球を)逃がしてもいいから」と言われて。だからまあ、エラーしようが別に気にせんでエエわけですよ。ただ左ピッチャーを打つことだけ考えていればよかったんで、これは楽でしたね。優勝しましたけど、僕らは訳も分からず無我夢中でやっていただけです。

カープにとって1990年代唯一となる91年のVを決め、喜ぶナイン。歓喜の輪の中に西山の顔も見える


 あのころのカープは、大人のチームでしたね。皆バラバラで個人個人のことをして、結果的にチームとしてまとまるというか。その前は浩二(山本浩二)さん、キヌさんを中心に、というのがあったかもしれませんが。

 91年の優勝は、佐々岡(佐々岡真司)が頑張ったのもあるけど、やっぱり最後に大野さんがいたのが大きかったんじゃないですかね。「とにかく1点でもリードしたら逃げ切れる」というのがありましたので。

 少ないリードを守り切る野球になったのは、それを目指した、というより、打てなかったからそうなっただけじゃないですかね。だって、左相手だったら、僕なんかでも出られるチャンスがあったぐらいですから。

苦しく、糧にもなった見えない相手との比較


 それが、92年に達川(達川光男)さんが急に引退されて、僕も状況が変わりました。もちろん、「これでいよいよ自分が」というのはありましたけど、キャッチャーではあんまり試合に出ていなかったので、配球とかよく分かってないわけですよ。その上、周りからは、結果が悪かったら「達川やったらあんなことせえへん」、いい結果が出ても「達川ならそれぐらいやるやろう」と言われる。見えない敵と戦うようなところもあって、アレは苦しかった。

 ただまあ、それがあったから、94年のベストナイン、ゴールデン・グラブ賞が獲(と)れた面もありますけどね。「タイトルの一つでも獲ったら、言われなくなるやろう」と思って頑張れましたから。実際、獲ってからは言われなくなりましたよ。

 ただ、95年は成績が悪かったので、今度は「やっぱりまぐれやったんやな」と言われて。それでまた96年は頑張りました。94年は古田さん(古田敦也ヤクルト)が途中で故障でいなくなったので、「2割8分打てばいける」ということでよかったですが、96年は古田さんがいたので、今度は「絶対3割打つ」と思って頑張りました(結果的に広島の捕手では歴代ただ一人の規定打席到達での打率3割を達成し、ベストナインとゴールデン・グラブ賞を受賞)。

 96年の打線は皆が3割前後で(3割打者5人)、よう打ちましたよね。でも、その分取られもした。まあ、僕自身、もちろん一生懸命やっていたんですけど、リードたるものが分かっていなくて、リズムが悪かった面も今思えばあったと思います。バッターが見えていなかった。

 あの、札幌の試合(96年7月9日、巨人に9連打されるなどして敗れ、逆転優勝を許すターニングポイントとなったと言われる)も、キャッチャーは僕でしたが、何を投げても打たれて、「もう、好きにしてくれ」という状態でした。逆転優勝を許したのは、僕らが打線が良かったと言っても、総合的なバランスで見たときに、巨人のほうが強かったということでしょう。そうとしか言いようがないですよね、僕らは。

 三村(三村敏之)監督は、合理主義の人でしたね。ですからシビアなところはシビアでしたけど、選手としてはやりやすい監督でした。例えばランナーのリード一つとっても、「足が速いランナーも、遅いランナーも、最低5歩までは出なさい」と。きちっと基準を決めてくれた。それでセカンドでアウトになっても責められたりはしない。バントシフトでも、それまではベンチの指示を伝えるのがキャッチャーの役割でしたけど、「守ってるお前が一番分かるんだから、全部やっていい」と。ですからやりやすいですけど、それだけ責任もありました。あと、試合中に「すいません」って謝ったらダメというルールもありましたね。

 達川(達川晃豊)監督のときは、ちょっと僕がケガで休んでいたあとで、あまり貢献できず、申し訳なかった感じが残っています。

 90年代は、FA制度ができたり、ドラフトで逆指名制度ができたり、外国人選手もちょっといい成績を残したら、他球団に抜かれてしまうような風潮になったりと、カープにとっては苦しい時代になっていく状況にあったと思います。

 チーム自体も、FAする選手は引き止めなかったし、こういう言い方をしていいのかどうか分からないですが、「給料が高くなったら出ていってくれ」というような感じもなきにしもあらずで。その辺、今はずいぶん変わりましたよね。マツダスタジアムができてからは資金力も豊かになって、菊池(菊池涼介)みたいに、ポスティングしても、成立しなかったら戻ってこられるとかね。

 今は、複数年契約もするようになりましたし。90年代は、広島はカープアカデミーを作って外国人選手を自前で育てましたけど、育てて良くなったら、メジャーに行くとゴネられて手放したりしていた。それで複数年契約という形を作ってそれを防ぐようにしましたよね。そういうふうに、90年代に痛い目に遭って、その後、チームはガタガタッとなったんですが、その経験を踏まえていろいろ策を練ったのが、資金力が豊かになったところで一気に3連覇につながったんじゃないですかね。

 そうして、苦しい時代を乗り越えて、野村(野村謙二郎)さんだったり、緒方(緒方孝市)が監督の時代に花開いた。それも、96年に逆転優勝を許したこととかいろんな経験を、指導者として生かしたからだと思います。

PROFILE
にしやま・しゅうじ●1967年7月7日生まれ。大阪府出身。右投右打。捕手。上宮高からドラフト4位で86年に南海入団。87年途中に広島に移籍。90年代にレギュラー捕手としてカープのホームを守った。2005年に巨人に移籍し引退。ベストナイン、ゴールデン・グラブ賞各2回。引退後は巨人コーチも。通算1216試合、716安打、50本塁打、282打点、打率.242。22年より中日コーチを務める。

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