入団テストに合格して、ドラフト6位で日本ハムに入団。2年目にイースタンの安打記録を塗り替え、3年目に一軍デビューと順調に一歩ずつ前進してきた。しかし、その後一軍でレギュラーをつかめず、定位置奪取に挑み続けている。今季はようやく結果を残し、パワー全開で戦っている。 文=池田晋 写真=高原由佳 母の熱意で野球の道へ
父はボクシングの元日本フェザー級王者。「拳士」という名前に父が込めた思いは直接聞いていないが、幼少のころにジムでトレーニングをし、縄跳びやバンテージの巻き方を教わったという。それがボクシングだと気づかぬうちに、サッカーに打ち込むようになった。だが、なぜかスパイクを買ってもらえず、いつもスニーカーでプレー。さらに、両親は土日にサッカーをする弟・拳士ではなく、野球に熱を入れる兄・翔貴の試合ばかりを観戦に行ったという。
「野球を始めると、用具一式をそろえてくれたんです。誘導尋問にハマったような形ですが、最終的に野球を選びました」
兵庫県出身の母は、息子たちが甲子園に出場する姿を夢見ていたようだ。そして、その夢は帝京高に進学した兄弟によってかなえられる。拳士が2年生ながら内野手のレギュラーを奪ったことで、3年生で外野手の兄とともに出場したのだ。本人は甲子園に出場したことよりも、帝京伝統の縦縞のユニフォームをもらったときの感激が忘れられないという。
3年時は主将を任されるも、甲子園に届かなかった。だが、スカウトが視察に訪れたときに、監督の指示でアピールのために左打席に立った。
「たしか、桐光学園高と報徳学園高との三つどもえの試合でした。1試合目は報徳学園の
近田怜王投手から、右打席で本塁打を打ったんです。桐光学園との2試合目では左で打つように言われ、サイクルヒットを達成しました。6打数5安打6打点くらい打ったんじゃないかと思います」
ただ、両打ちはまだモノになっておらず、連続ティー打撃で右手が疲れたから、左で打つという程度のもの。それでも、両打ちがプロ入りへの大きなポイントになった。社会人野球の強豪への就職が決まっていたが、プロへの夢を捨て切れず日本ハムのテストを受けた。「(帝京高の先輩でもある森本)稀哲さんの姿などを見ていて、どうしても日本ハムに入りたかった」と意中の球団からの入団テストの誘いに飛びついた。左で打つことを条件に挑んだが、6打数無安打で4三振と結果は残せず。そのとき
谷元圭介(当時バイタルネット)とも対戦。6番手で登場した小柄な投手を見たとき「これなら打てる、よっしゃー!」とテンションが上がったが、あえなく三振。いいところを見せられなかったものの、結果は合格。ただ、谷元との対戦で力の差を痛感した。
「社会人の第一線で投げる投手と高校生のレベルの差を見せつけられましたね」
入団後もプロのカベにぶち当たった。1年目の教育リーグで調整登板をしていた
ヤクルトの
石川雅規と対戦し、手も足も出なかった。
「完全に遊ばれました。でも、それがきっかけで、それまでの倍以上はバットを振るようになりました」

右打席で打率.341、左打席でも打率.333。左右どちらも好結果を残し、必死にアピールを続ける
2年目に安打記録更新
ファームで過ごした1年目はコンスタントに試合に出場。72試合で打率.269と特筆すべき数字は残していない。ただ、秋ごろには大きな手応えをつかんでいた。
「もしかして、このようにやっていけば、打てるんじゃないかという感覚をつかみました。バットの出し方が・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン