“5敬遠男”が捨てたスラッガーのプライド
東都大学野球連盟・本郷茂理事長(青学大部長)は約600人の出席者を前にして、15年秋のリーグ優勝と神宮大会5度目制覇の要因を語った。
「生田(勉)監督の良い教育の賜物です。そして、一歩先に行かれた指導。3年生以下が奮起しないといけない、と。それは一つの改革でした」
2015年夏、亜大は北海道・釧路キャンプに、
北村祥治主将(星稜高)以下、旧4年生を一人も連れて行かなかった。指揮官の目が行き届かない東京に残しても、調整してくれる全幅の信頼感があった。一方、3年生以下の姿は、生存競争が激しい“戦国東都”を勝ち残っていくには、物足りなかったという。
神宮でプレーする責任と、危機感を植え付けた約2週間。北の大地で大きく変わった一人が、15年秋の首位打者・
法兼駿(3年・高知高)だ。
高校通算40本塁打。左の強打者は3年夏、“伝説の男”と肩を並べた。明徳義塾高との決勝。四番・法兼は準決勝までに打率.500、2本塁打、6打点。「そういう作戦で来ることは分かっていた」。明徳義塾は法兼との勝負を意図的に避けた。6打席中5打席が四球。高知は延長12回サヨナラ負けで、春夏連続甲子園を逃す。1992年夏の甲子園で社会現象にもなった「星稜高
松井秀喜5連続敬遠」に続く、明徳義塾が取った「5敬遠」を、本人は回顧する。
「よく言われますが、そんな大した打者ではないです(苦笑)。捕手が立ち上がって敬遠したのは10回(二死二塁)と12回(二死一塁)の2度。たまたま内側に入ってきた第2打席の左飛以外は、すべて外角でした。ただ個人の打席より、チームで負けたことのほうが悔しい記憶です」

15年12月23日、東京都内のホテルのパーティー会場で取材に応じてくれた亜大の副主将・法兼。15年秋に戦国東都で首位打者を獲得し、自信に満ちあふれていた
亜大では合流直後から、生田監督が法兼のセンスを絶賛。オープン戦でも本塁打を放つが、その後は落ちる変化球に苦戦した。3年春に初安打を放ち、終盤には二塁に定着したものの打率.222と低調。そこで迎えた、背水の釧路キャンプだった・・・
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