80年代を中心に甲子園で活躍を見せた福岡大大濠高は、1991年春を最後に甲子園から遠ざかっている。昨夏、2年生右腕がドラフト候補に名乗りを上げ一躍、注目の存在となった。総合力の高さは、プロ入りした2人の先輩よりも上との評判である。 取材・文=岡本朋祐、写真=上野弘明 毎日ように練習を視察し惚れ込んだ献身的な姿勢
2010年4月に就任した八木啓伸監督(38歳)はタイミングを模索していた。福岡大大濠高は1981年夏、エース右腕・
森山良二(元
西武ほか)を擁して甲子園初出場。以降、89年夏に8強進出を遂げるなど、91年春まで計6度、聖地で白いユニフォームが躍動してきた。左胸にはエンジで「福大大濠」。昭和の香りがするこの書体こそが、同校の強さの象徴であった。95年に横組みで「大濠」へ変更されると、新グラウンドが完成した2008年には欧文の筆記体で「Ohori」にモデルチェンジ。双方とも斬新なデザインではあったが、
大石達也(早大-現西武)に
川原弘之(現
ソフトバンク)と、当時からプロ注目の大エースを据えても、甲子園に立つことはできなかった。
かつては学校校庭で練習していた野球部。バスで30分の専用球場の近くにある元岡中に、逸材がいるとの情報が入った。八木監督は練習前、毎日のように同中学へ足繁く通った。グラウンドには入らず、ネット越しからこっそり視察するお目当ては
濱地真澄。福岡選抜で出場したKボール全国大会では、すでに140キロ超を投げ込んでいた大器の印象はこうだ。
「練習で投げている姿は、一度も見たことがありません。チームメートにノックを打ったり、球拾いにグラウンド整備……。時には捕手としてボールを受ける。献身的な姿勢に、人間としての魅力を感じました」
実戦も5試合以上は見た。それほど惚れ込んでいても、八木監督の方針により、学校サイドから獲得へ動くことはなかった。しかし、濱地は「大濠の看板を背負って投げたい」と、福岡大大濠高を志望。それは小学校時代から決めていたことだった。父・浩充さんは同校野球部OB(一塁手)で、81年夏はアルプススタンドの応援部隊。父子は小学校の6年間、毎年のように甲子園を観戦してきた。
「独特の雰囲気に、あの歓声。ネット裏から見たときの迫力も忘れることができません。父の母校で甲子園に行きたい。その思いしかなかった」
強さの象徴であったデザインが21年ぶり復刻

ワインドアップから軸足に体重を乗せてから力まず、リリースポイントだけを意識して投げる。これが球速表示以上の直球が投げられる理由だ
昨春、八木監督はついに重い腰を上げる。「復活できるときを狙っていた・・・
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