一塁手を見ずに併殺送球、神ワザのライト打ち、抜群のキャプテンシー。そして岡本太郎らとの交友。見事なる人生 文=大内隆雄、写真=BBM 
53年の日米野球用ユニフォームを着た千葉[下]。ライバル・川上[上]とは引退まで年俸が同額だったという
今回は、初めて戦前からのプレーヤーの登場である。もちろん、筆者は、プレーヤー・
千葉茂を見ていない。しかし、筆者-編集者の関係で20年以上の付き合いがあった。だから、千葉に関しては、だれよりもよく知っているという自負がある。その20余年の付き合いの中で、千葉の“仕事”は、3つのポイントで表すことができる、という結論に達した。
(1)二塁手の重要性を認識させたこと
(2)抜群のキャプテンシー
(3)野球界以外の友人、知人の素晴らしさ。
この3つである。(1)に関しては、
三原脩の存在が大きい。三原は
巨人の初代二塁手だが、初めは外野手、三塁手だった千葉を二塁手にするために徹底的に鍛えた。
千葉は、三原の期待にこたえプロ野球を代表する二塁手に成長するのだが、「ただ堅実に守るだけではプロやない。そこに見せるものがないと」と、名人・
苅田久徳二塁手(セネタース)の「見せる守備」を食い入るように見詰め、千葉独自の名人芸を磨いていった。その1つが、併殺プレーで一塁手を見ずに送球すると言われたマジカルスローイング。「そんなワケないやろ。一塁手がだれか知っとるか?」と千葉はテレたが、一塁手が拙守で鳴る(?)
川上哲治なのだから、確実に送球した、と言いたいのか。まさか。千葉は、川上がどう構えて、どう捕球(逸球)するか、見なくても分かっていたのだ。
戦後の54年に入団した
広岡達朗が「千葉さんの体全体がグラブのようだった」と驚嘆したのは、妙な言い方になるが、存在自体が二塁手そのものであることに感動したのである。内野手ならそこまで行きたい――。
戦前はクリーンアップを打っていた千葉は戦後、一番打者に。ここで打つ方で戦前からの見せる芸を完成させる。徹底したライト打ち・・・
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