「絵にかいたような紳士」の裏には恐ろしいほどのプライド。あの稲尾和久との対決のみがそのプライドを満足させた 文=大内隆雄、写真=BBM 
ルーキーの58年の杉浦。この年27勝で新人王。翌59年は、宿敵・稲尾に投げ勝ち38勝してMVPに
これまで
杉浦忠のことは、いろいろ書いてきたが、今回は、ほとんど書いたことのない2つの話から入りたい。
杉浦は南海がダイエーとなって福岡に移った1989年限りでダイエー監督を退任、後任は、
田淵幸一(元
阪神、
西武)に決まった。当時、ベースボール・マガジン社で評論家をしていた
大田卓司(元西武)は、田淵ダイエーの打撃コーチとして招へいされていた。
筆者は「大田さん、行きがけならぬ去りがけの駄賃で、田淵さんとの対談をお願いしますよ。あなたにお任せしたらすべてうまくいくから」とかなんとか、舌先で乗せて、実現にこぎつけた。
さすがに、田淵-大田の絆は太く、福岡のダイエー系のホテルの、中内功オーナーしか使えない特別室での対談となった。田淵が現れる前、大田は「杉浦(90年から球団役員)さんのことを、いろんな人に聞いたんだけど、だれ1人悪口を言う人がいない。こんな人は珍しいですよねえ。プロ野球選手なんて悪口を言われてナンボの世界なのに(笑)」と話してくれた。「絵にかいたような紳士」と言われていた杉浦だが、やはりそうなんだなあと思ったものだった。
その杉浦に、亡くなる数年前、必要があって堺市のホテルで4時間近く話を聞くことがあったが、ダイエー時代の話になるとサッと表情が変わって「田淵君を監督に招くのはいい。しかし、球団が、僕に向かって『あなた、田淵を迎えに行って頭を下げてくれ』と言ったのは許せなかった。なんで僕が頭を下げなくてはならんの。球団は人間の扱い方がまったく分かっていない」と怒り心頭の激しい言葉を吐いた。
球団関係者と杉浦の間にどんなやり取りがあったのかは、分からないし、聞くのもはばかられたのだが、杉浦の恐ろしいまでのプライドの高さは、よ~く分かったのである。
杉浦が入団1、2年目のころ、酒の席ではあったが、同席していた西鉄の主砲・
中西太に向かって・・・
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