昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。柏原純一さん編の2回目は南海を退団した経緯、そして日本ハムに移籍してからの思い出を伺いました。 文=落合修一 
柏原純一
野村克也からのマンツーマン指導
──
前回からの続きです。1971年に南海に入団した柏原さんは、主力打者として頭角を現します。
柏原 野村克也さん、
門田博光さんがいたから、僕は主力じゃなかったよ。南海時代はホームランも最高18本(1977年)でしょう。まあ、南海は個性的な選手が多いチームだったね。
広瀬叔功さんなんかミートがうまくて、ナンボでも打てそうだった。あと、
富田勝さんもいた。
──法大三羽ガラス。
柏原 富田さんはキャンプの紅白戦で見逃し三振したら、ストライクと判定した審判を殴っていました。オープン戦ですらない、キャンプの紅白戦の出来事だよ。あれはびっくりしたなあ。
──門田さんについては、何か思い出はありますか。
柏原 「俺はホームラン王を狙うから、ホームランを狙うんだ」と公言し、腕力をつけるためにダンベルを持ち上げていた。ビールが好きだったね。一口で大ジョッキを全部飲んでおかわり。それでも、キャンプでは「減量する」と言って朝から野菜サラダしか食べないときもあった。
──では、柏原さんが南海を退団した経緯をお聞かせください。77年限りで野村兼任監督が解任され、一選手として
ロッテに移籍することになった。柏原さんも野村さんと一緒に移籍したかったのに叶わず、日本ハムにトレードとなったのですよね。
柏原 僕はまだ野村さんに教えてほしいことがたくさんあったんです。配球とか練習方法とか、一緒に試合に出ながら指導してほしかった。なぜそうなったのかというと、僕は開幕直後は良くても5月くらいに打率を落とすことが多かったんです(編注:75~77年は3年連続で5月の月間打率が2割未満)。野村さんから「なぜだか分かるか? 序盤はキャンプの練習で何とかなるんだが、5月くらいになると通じない。若いときは、ちゃんと一年中やれや」と説教され、野村さんが当時住んでいたマンションの横が空いているから引っ越してこいと。監督の野村さんの近くに住んでは周囲からどう思われるかというのがあったのですが・・・
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