昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。現役時代は中日などで活躍した田尾安志さん編の最終回は、まったくのゼロから立ち上がった新球団・楽天の初代監督として過ごした1年間を振り返っていただきました。 文=落合修一 
田尾安志
新球団の立ち上げは? と好奇心から監督就任
──2005年に誕生した新球団・楽天の初代監督になった経緯から教えてください。
田尾 初代GMのマーティ・キーナートから電話があって、「相談に乗ってほしいから食事をしよう。監督を探しているんだが、誰かいい人いないかな」という話だったんです。だから僕はこの人ならこういういいところがある、といろいろな名前を挙げたのですが、あれは話の取っ掛かりだったのかもしれません。すぐに、監督をやってみないかと言われましたから。戦力的に最下位になることはその時点で分かっていたので、「僕は今の生活が充実しているのに」と思いましたね。
──もともと、いつかは監督をやりたいという願望はあったのですか。
田尾 現役引退したとき、女房は「もうユニフォームを着てほしくない」と言っていたので、相当にしんどかったのだなと。もう着るつもりはなかったのですが、楽天の話をされたときに相談したんですよ。そしたら、「新球団の初代監督なんて、なりたくてもなれないよ」と背中を押してくれました。それでも即断はできなかった。楽天は(金銭的な)条件を言わなかったので翌日に尋ねたら、その時点の解説者としての収入より安かったのです。
──断ったのですか。
田尾 はい。そしたら、また翌日に連絡が来て、金額が倍に。三木谷(三木谷浩史)オーナーと一度会うことになりました。その時点で三木谷さんは40歳にもなっていないですよ。若かった。僕からは「楽天の名前はみんなが知っているから、企業名を胸に着けるのはやめたらどうですか」と提案したら「いいですね」と乗り気だったので、さすがに若い人は違うな、考え方が柔軟だなと思っていたのですが、始まってみたら楽天のユニフォームにはデカデカと企業名が。何だったんだ、あのときの言葉はと。
──そのときから不信感が。
田尾 その場では調子のいいことを言うのです。そういうことはそれだけじゃなかったんですよ。大変な組織でしたね。
──戦力的に苦労することが分かっていたのに、よく監督を引き受けましたね。
田尾 誰かがやらないといけないですからね。あと、何もないところから新球団を立ち上げるのはどうなるのだろうという興味がありました。怖いもの見たさと言いますか。
──好奇心があった。
田尾 戦力的には、最初は「
オリックスを除く既存の10球団」も各25人くらいをプロテクトして、残った選手から何人かずつ選手を供出してくれるという話だったんです。それでもキツいなと思っていたのですが・・・
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