昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。「ミスターファイターズ」の田中幸雄さん編の2回目は、選手としての絶頂期を迎えた東京ドーム時代のお話が中心です。 文=落合修一 
田中幸雄
「年間30本塁打」を一度は達成したかった
──
前回からの続きです。1986年に
日本ハムへ入団した時点では、本拠地は後楽園。88年に日本初の屋根付きの野球場である東京ドームが開場しました。
田中 後楽園も最初は感動しましたよ。宮崎の高校生にとって人工芝の球場は初めてで、きれいな球場だなと。慣れてくると結構汚かったんですけど(笑)。東京ドームもまた、すごい球場ができたなと。ロッカールームもお風呂も広くて。白い屋根だったからデーゲームではフライを捕るときにボールが見えにくいというのはありましたけど。内野手より外野手のほうが大変だったと思います。
──入団時点の
高田繁監督はどういう方でしたか。
田中 監督とは当時、話をした記憶がないんですよ。僕は守備が下手で、内野守備走塁コーチ(87年就任)の猿渡(
猿渡寛茂)さんも寮に住んで付きっきりで、試合が終わってからも練習しました。打つほうでも打撃コーチの村井(
村井英司)さん、千藤(
千藤三樹男)さんにはお世話になりました。良い指導者に恵まれましたね。
──89年に
近藤貞雄監督が就任。
田中 監督が代わるとチームの雰囲気が変わり、使われなかった選手が使われますよね。近藤監督になってからは広瀬(
広瀬哲朗)さんの出場機会が増えました。ショートは僕で変わりませんでしたが、三塁は広瀬さんが多くなりました。
──日本の野球では一般的に、遊撃手は守備優先で打撃は二の次というか、小技タイプが昔から多かったじゃないですか。しかし、あのころ、パ・リーグは田中幸雄さん、セ・リーグは
池山隆寛さん(
ヤクルト)とダイナミックな新しいタイプの遊撃手が台頭しましたよね。
田中 僕は池山さんほど打てなかったですけど(笑)、「打って守れるショート」を意識して、自負を持って取り組んでいましたね。体が大きくても動けて・・・
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