
西武と日本ハムによるパ・リーグの前後期プレーオフ第1戦[西武]は0対0の8回裏に西武打線が日本ハム・江夏をバント攻撃で一死満塁と追い詰め、代打・大田卓司の2点適時打で勝負を決めた
「俺と広岡さんとの勝負だ」(江夏)
1981年オフ、
広岡達朗が西武の監督に就任したとき、元
巨人監督の
川上哲治は言った。
「ライオンズは必ず強くなる。少なくとも3年後には日本一を争うようなチームになると思う。広岡はそうすることができる男だ」
川上は半分正しく、半分読み違えた。広岡率いる西武は確かに日本一を争うチームになった。だがそこまでの期間はたった1年に過ぎなかった。82年、広岡は徹底した管理野球、組織野球で6年連続Bクラスだった西武をいきなり前期優勝に導き、プレーオフ進出を果たしたのである(当時パ・リーグは前後期制)。
相手は前年の覇者・日本ハム。後期制覇の立役者は当代随一の抑え投手である
江夏豊だった。前年MVPのサウスポーは、この年も8勝29セーブ(37セーブポイント)を挙げて4年連続となる最優秀救援投手のタイトルを獲得していた。
この江夏を倒さなければ、優勝はない。広岡は選手に檄(げき)を飛ばした。
「江夏が出てくる前に勝負を決めようと思うな。江夏を倒すんだ」
肥満体の江夏は守備を苦手としていた。広岡はそこに目をつけ、選手たちに徹底したバント練習を命じた。マウンドに向けてプッシュバントを繰り返す。そうして江夏をかく乱しようとしたのである。新聞報道で江夏は西武がバント練習をしていることを知っていた。そのうえで江夏は・・・
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