
1980年代中盤から後半にかけての広島で主力打者として活躍した小早川毅彦は96年限りで戦力外となり退団。野村克也監督のヤクルトに移籍して、初出場が開幕戦スタメン五番だった
広島を退団、野村克也と出会う
1984年、法大の小早川毅彦はドラフト2位で広島に入団した。大学通算16本塁打、2年秋には三冠王を獲得した地元出身のスラッガーは、法大の先輩でもある「ミスター赤ヘル」
山本浩二の後継者と目された存在だった。
小早川は期待に応え、1年目から打率.280、16本塁打と新人王に輝く活躍を見せる。87年には打率.286、24本塁打、93打点という好成績を残した。同年9月20日の
巨人戦(広島)では、これも法大の先輩にあたる
江川卓から引退を決意させるサヨナラ2ランを放つなど、押しも押されもせぬカープの主力打者に成長したのだった。
しかし若手の成長や自身のケガにより、小早川の出場機会は徐々に失われていく。そして出番がほとんどなかった96年の夏、小早川は戦力外通告を受けた。解説者の仕事を紹介してくれた球団に感謝しつつも、まだ燃え尽きていなかった小早川は現役続行を決意し、ヤクルトに移籍する。35歳の再挑戦が始まった。
さっそくヤクルトの秋季キャンプに参加した小早川に野村克也監督は言った。
「お前は自分を器用だと思うか。不器用だと思うか」
どんな球が来ても選ばずに打ちにいってしまう自分を不器用だと思っていた小早川がそのように答えると、野村は大きくうなずいた・・・
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