文=大内隆雄、写真=BBM 早大の「下手くそ」がプロで一気に名手に。努力の人だった。
阪神の
中村勝広ゼネラルマネジャー(GM)が9月23日、都内のチーム宿舎のホテルで急性心不全のため死去した。66歳だった。この日は、東京ドームで対
巨人戦があったが、午前11時半、ホテルロビーで南信男球団社長と待ち合わせ、球場に向かうはずだった。予定時刻を過ぎても中村GMが姿を見せないので、同社長らが部屋に様子を見に行くと、あお向けの状態で死亡していたという。
中村GMは72年、ドラフト2位で阪神に入団。堅実な二塁守備と、細身の体(70キロを超えなかった)に似合わぬ長打力で70年代の阪神を支えた。75年には130試合全試合に出場し、133安打、16本塁打、43打点、打率.280(14位)とすべての面で自己最高の数字を残した。この年、91四球。選球眼が抜群だった。
82年に現役引退。阪神の二軍監督、コーチを経て90年監督就任。92年にはチームを2位に引き上げた。95年途中まで務め、同年退団。2003年オリックスGMとして球界に戻り、06年には監督就任。07年にフロント入りして09年退団。12年9月、阪神の初代GMに就任した。
中村二塁手が78年に二塁手の守備率日本記録(当時).995をマークしたときは驚いた。早大時代は・・・
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