大型ながら強打、俊足、好守を兼ね備えた逸材と高い評価を受けていただが、大学時代に負ったケガで選手生命が大きく変わる。プロ野球選手としては大成できなかったが、ゼロからのスタートとなった新天地で、あらためてプロとして大きな成功を収めた。 取材・文=吉見淳司、写真=BBM 自分がほかの仕事でどれだけできるのか
“和製カンセコ”という呼び名を記憶している読者も多いかもしれない。
1988年にメジャー・リーグ史上初めて40本塁打、40盗塁をクリアしたホセ・カンセコにちなんでスポーツ誌を飾ったその異名が、当時の期待感を物語る。
89年ドラフト3位指名で
阪神に入団した
金子誠一は、95年に現役を引退し、現在は個人、法人に向けた保険を取り扱う株式会社FPスタジアムで代表取締役を務めている。
7年間で積み上げたのは通算11本塁打、11盗塁。191センチの大型外野手の選手生命に影を落としたのが、法大4年春のリーグ戦直前に負ったぎっくり腰だった。
「大学3年までの投手から野手に転向し、勝負を懸けた1年。今までやってきたことが水の泡だと思って、誰にも言わずに試合に出ていました。そのときに安静にしておけば、もうちょっと選手寿命は長かったかもしれません」
腰の痛みは次第に重さを増していき、後年には下半身の感覚がなくなることも。現役に未練はあったが、野球を続けられる体ではなかった。
95年に引退したものの当時は球団の雇用枠に余裕がなく、枠が空くまで阪神電鉄に勤務する話もあったという。
「それも一つの方法ですが、野球しかしてこなかった自分がほかの仕事でどれだけできるのかにも興味がありました」
「一番のやりがいは、業種に関係なく人脈が広がっていくこと」
そのときに声を掛けてくれたのが・・・
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