先週号でお伝えした、今年の「ライオンズ・クラシック」に、オレも老体にムチ打って(?)参加してきました。「週ベ」でも、カラーページで、みんなとオレが一緒に写っている1枚を載せてくれました。
まあしかし、なにぶんにもプロ野球スタートの1936年のチームにスポットライトを当てる試みなので、表現が悪くなって申し訳ないのですが、いささか雲をつかむような話になって実感が薄くなります。オレが生まれて1年後の話なんですもの。
で、オレも先週号でとんだミステークをやってしまいました。これは間違いというのではなく、大事な人を忘れていたのです。セネタースと言えば
苅田久徳さん──これに間違いはないのですが、もう1人、マウンドで仁王立ちしていた人に先週号で触れなかったのです。その人は、あの
野口二郎さんです。
稲尾和久(西鉄)の前に「鉄腕」と言われた人です。初代・鉄腕は1年目から鉄腕でした。39年に中京商からセネタース入りすると33勝。翌年も33勝。プロ入り2年で66勝もしたのは野口さんだけです。まさに鉄腕でした。そして、球団名が大洋となった42年には、名古屋との延長28回の死闘(4対4の引分)。
巨人の
スタルヒンさんが、少し落ち目になってからは、野口さんが日本プロ野球界のエースとなったのです。42年には史上最多の19完封!
「二刀流」はかつて日本野球の名物だった投手酷使の現代的変形か?
それにしても、昔はひどい使われ方をしたものですよねえ。先週号の「週ベ」にも出てたけど、1年目の野口さんは、33勝するとともに規定打席にも達しています。そして4年目は28回完投。野口さんは、この試合の前日にも先発してるんじゃなかったかなあ(朝日戦で1安打完封)。
このエース酷使は、日本のプロ野球ではずいぶんのちまで“名物”となります。ルーキーから2年で66勝なんてのは野口さんだけの破天荒な記録だろうと思ったら、結構それに近い人がいるんですよ。稲尾が56年21勝、57年35勝で56勝、南海・
杉浦忠投手が58年27勝、59年38勝で65勝、
中日・
権藤博投手が61年35勝、62年30勝で65勝。もう60年代に入っているのに恐ろしいエース酷使が続いていたんですねえ。いまの先発は逆に甘やかされ過ぎだと思うけど、これはしかしひどいですよ。
と、書いてきて、
日本ハム・大谷の“二刀流”も、この日本球界名物の現代的変形ではないのか、とオレは思い至りました・・・
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