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野村克也の本格野球論

野村克也が語る「幼いころの思い出」

 

幼くして父が戦死。病身の母は苦労ばかり


 今年も夏の甲子園が始まった。昼間はつい、テレビをつけて高校野球を見てしまう。しかし、わが故郷、京都代表の龍谷大平安は大会初日、早々に敗退してしまった。残念だ。

 この連載でも何度か私の高校時代について触れているが、私は当初、高校にさえ行かせてもらえない可能性があった。

 父は私が2つのとき戦争に行き、3つのときに戦死した。だから、私は父親の姿をほとんど知らない。以来、見たのは母親が苦労している姿ばかりだった。母は病身で、私が小2のときに子宮ガンと判明したが、発見が早く、事なきを得た。ところが翌年、今度は直腸ガンに罹患。娘時代に看護師として勤めていた京都市内の病院に入院した。私が小3、兄が小6のとき。私たち兄弟は近所の家に預けられ、そこから学校に通った。嫌だったなあ。貧乏はしても、親のそばにいるのといないのとではエライ違いだった。ヨソの家では、「お腹すいた」なんてひと言だって言えないのだ。なんでも我慢するしかない。それで、こんなに我慢強くなったのかもしれないなあ。

 母がいよいよ退院するという一報が入ったときは、本当にうれしかった。母の乗った汽車が着く2時間ほど前から駅で待っていた。小さな川と田んぼがあるぐらいの田園風景の中にポツンと立っている、小さな駅。1日に4本ぐらいしか汽車も通らない。私は川に入り、魚を追いかけながら時間をつぶした。

 そのうちボーっと汽笛が鳴り、「ああ、来た、来た」と改札口から身を乗り出して母を待った。すると、ちょうど左斜めのデッキから、幽霊みたいに真っ白な顔をした母親が、どこかのおばさんに抱えられて降りてきた。家には車などなかったから、私たちは近所でリヤカーを借り、迎えに行っていた。そのリヤカーに母を乗せ、久々に家族3人そろって帰路に就いた。

 あの日の母の姿は、今も鮮明に覚えている・・・

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勝負と人間洞察に長けた名将・野村克也の連載コラム。独自の視点から球界への提言を語る。

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