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野村克也の本格野球論

野村克也が語る「ドラフト/天才だと思った選手」

 

『“とは”教育』の難しさはプロ入団時の達成感にあり


 今年もドラフトが終わったがプロ野球の監督は、選手たちに『“とは”教育』をすべきだと、このコラムでも何度か書いてきた。『“とは”教育』は、私の造語。「野球とは」「社会人とは」「人間とは」「プロフェッショナルとは」何かを、選手たちに説く。

 しかし、その『“とは”教育』をしながら、ある意味「プロの監督は難しいな」と思うことがある。そう思わせる原因は何かというと、プロに入ってきた選手たちが“達成感に浸っている”ためだ。

 プロに入るという子どものころからの夢が果たせたからと、プロ入団=出発点なのに“到達点”と錯覚してしまうのだ。私はそこをやかましく、選手たちには言ってきた。

「お前らはまだ、ゴールじゃない。出発点にいるんだぞ」

 プロ野球選手は、契約金だなんだと、若くして大金を得てしまう。給料は一般サラリーマンをはるかに上回るし、仕事の拘束時間は数時間に過ぎない。おいしいものを食べて、飲んで、あとはヒマでしょうがない。24時間の使い方を分からせるには、本当に苦労する。

 人間、誰しも楽をしたい。楽しい方を選びたい。放っておけば、楽しい方向、楽な方向へ、進んでいってしまう。

 私が現役のころもそうだった。みんな頑張るのは、2月だけ。ホテルでも合宿所でも夜、庭に出て一生懸命素振りをする。だが、3月になったら、半分以上出てこない。シーズンが始まるころ、ついにはそれも2、3人になる。

「若いころの苦労は買ってでもしろ」とは、よく言ったものだ。監督采配も選手時代の経験や考え方がベースになるから、若いころに苦労した人ほど、その采配に味があるではないか。前回のコラムで触れた西本幸雄さん(元阪急ほか監督)も、そうだった。

“アチャコ走法”で盗塁王に輝いた“天才”広瀬


 それでは、読者からの質問を一つ。「ノムさんのチームメートで“この人は天才だな”と思ったのは、誰ですか?」(高野祭典さん)

 この質問を読んで、ふっと思い浮かんだのが広瀬叔功だ。彼は天才的なバッターだった。現役時代の私が相手ピッチャーのクセを読み、それをチームメートに教えた話は、ずいぶん前に書いたと思う。

 広瀬にも教えたら、「ありがとうございます」と言ってバッターボックスに向かったが、打てなかった。「合ってるやないか、お前」と言うと、「合っているのが分かると、打てない。分からない方がいい」そうだ。それを聞いて、ビックリした。ただボールに集中していればいいのだろう。そうすれば、体が勝手に反応してくれる。まさに天才だ。

 全身バネ、というような選手だったが、走り方は(漫才師エンタツ・アチャコの)アチャコのようだった。しかし、その“アチャコ走法”が速いのなんのって。

 彼がサードランナーで出ているとき、私がバッターボックスに入ると、彼はよくこう声を掛けてきた。

「ノムやん、前、前!」

 そのとおり、ピッチャーゴロでもなんでもいいから、前に転がしたら絶対ホームへかえってくる。なんせ、反射神経がすごかった。

 あるとき、練習前に外野でたむろしていると、先輩選手が広瀬に言った。

「チョロ(広瀬の愛称)、手を使わんでボーンとジャンプして、フェンスの上に座れたら、今月のメシ代、全部おごってやるぞ」

 外野にスタンド席がなく、フェンスだけがあるような球場だった。そのフェンスは真っすぐ立って、やっと手が届くぐらいの高さ。ジャンプだけでそこに座れるなんて、皆想像もできなかった。

「ホントですか?」

「約束だ」

「よ〜し!!」

 そう言うなり、広瀬は2、3歩助走をつけて、ポンッとジャンプしてフェンスの上に座った。拍手喝采だ。それぐらい体にバネがあった。

全身バネのような選手で走攻守、すべてに優れていた広瀬


 阪急・福本豊のプロ入り前には、5年連続(61〜65年)盗塁王を獲得。

「福本は勝敗に関係なく盗塁する。点差が開いていようが接戦だろうが関係なく、出たら走る。俺はああいう、価値のない盗塁はしない」

 それが広瀬の信念だった。常にチーム優先、勝利優先。そうでなければ、盗塁数ももっと増えていただろう。性格の良さが、福本との盗塁数の差を大きく開いてしまったか。相手のクセを見抜き、弱点を突いて盗塁する福本に対し、広瀬はほとんど本能だけで走っていたと思う。

 さて、皆様には誠に恐縮ではあるが、当方の都合により来週からしばし休載期間を頂戴したい。再登場の時まで、私も『本物の野球』について、あらためて考えてみたいと思う。

PROFILE
のむら・かつや●1935年6月29日生まれ。京都府出身。54年にテスト生として南海に入団し、56年からレギュラーに。78年にロッテ、79年に西武に移籍し、80年に引退。歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王に輝いた強打と、巧みなリードで球界を代表する捕手として活躍した。引退後は90〜98年までヤクルト、99〜2001年まで阪神、03〜05年までシダックス(社会人)、06〜09年まで楽天で監督を務め、数々の名選手を育て上げた。その後は野球解説者として活躍、2020年2月11日に84歳で逝去。
野村克也の本格野球論

野村克也の本格野球論

勝負と人間洞察に長けた名将・野村克也の連載コラム。独自の視点から球界への提言を語る。

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