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野村克也の本格野球論

野村克也が語る「契約更改」

 

3年連続2冠王に日本一で大減俸


現在は西武・秋山がシーズン最多安打記録を作り8800万円増の推定1億5000万円で更改したように成績を残せば景気よく年俸も上がるが、筆者の現役時代は日本一&2冠王に輝いてもダウン査定のときがあった[写真=大泉謙也]



 連日、契約更改のニュースがメディアをにぎわせている。

 私は現役時代、契約更改では常に一発サインをしていた。球団の提示額に、そのままポンッとハンコを押すだけ。だから5分もすれば、ドアを開けて出てきてしまう。お金のことでゴタゴタするのは、嫌だったからだ。

 しかし、あれは忘れもしない1964年のことだ。東京オリンピックの年だった。私は打率こそ前年の.291より低い.262だったが、41本塁打、115打点で3年連続の2冠王。チームはリーグ優勝し、日本シリーズも4勝3敗で阪神を下した。当然「どのくらい上がるかな」と楽しみにしながら、契約更改に臨んだ。もちろんポケットには、すぐ出せるようにハンコが入っていた。

 次の瞬間、私は提示額を見てわが目を疑った。減俸である。何かの間違いだと思った。しばらくその数字をボーッと見ていたが、そこで何も言わず、席を立った。「失礼します」プロ野球人生初めての提示額拒否だ。

「まあ、座れや」

 交渉を始めようとする新山滋社長を「いや、結構です」とさえぎり、私は部屋を出た。

 減俸といっても、ただの減俸ではない。大幅減俸だ。プロ野球には減額制限があり、それ以上の減俸額を提示して選手が同意しなかった場合は、球団はその選手に対する保有権を放棄し、自由契約とするルールになっている。提示額を見た私は一瞬、自分が自由契約になったのかと思った。それほどの大減俸だった。

 その後も球団とは何度か話し合ったが、お互い歩み寄ることはなかった。そして年を越し、キャンプがやってきた。契約していなければ、キャンプは自費参加である。自腹を切ってキャンプに参加し、そこでも交渉は続いた。結局2月の終わりごろ、約5%の減俸額まで譲歩したところで、しぶしぶサインした。

 まさか2冠王に日本一で減俸とは思わなかった。私はハンコを押し、最後に捨てゼリフを吐いた。

「じゃあ、年俸を上げてもらうにはどうしたらいいんですか?」

 すると新山社長はニヤッと笑い・・・

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勝負と人間洞察に長けた名将・野村克也の連載コラム。独自の視点から球界への提言を語る。

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