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惜別球人2015

木佐貫洋 引退惜別インタビュー「後悔はありますが引退は納得しています」

 


巨人に入団して1年目から10勝を挙げて新人王に輝く。150キロを超える速球を投げ、とてつもない可能性を感じさせた。しかし、球速が落ち、手術を受けて思うようなボールが投げられなくなる。それでもフォームの改造と投球スタイルの変化で見事に復活。移籍した2球団でも確かな足跡を残してきた。
取材・構成=池田晋、写真=大泉謙也、BBM



オープン戦で抑えるも初登板で洗礼浴びる


川内高時代からプロに注目されるが、亜大を経由してプロに入る道を選んだ。大学時代は右肩の故障に苦しみ、3年時まではほとんど公式戦で登板できなかった。それでも巨人のスカウトから高い評価を得て、プロ入り。だが、一軍初登板で、“プロの洗礼”を浴びる。

――巨人の一員になってみて、球団、選手たちの印象は変わりましたか。

木佐貫 桑田(真澄)さん、清原(和博)さん、工藤(公康)さんなど偉大な先輩方がいて、今まで仲間と話すときなどは皆さんの名前を呼び捨てだったのが、本人と会うようになって「さん付け」をするようになりました。オフで家族に会ったときに、そこを指摘されましたね。

――巨人に入団して、プロのプレーを実際に見て、違いを感じましたか。

木佐貫 最初は無我夢中で周りを見る余裕がなかったです。キャンプで自分の隣で誰が投げているのかなど気にする余裕もなかった。練習についていき、自分をアピールすることで目いっぱいでした。視野が狭くなっていましたね。

――なかなか、自分の力を推し量ることができなかったのですね。

木佐貫 1年目のオープン戦で投げさせてもらって、防御率が1点台ですごく良かったんです。そこで原(辰徳)監督にみんなの前で「お前さん、オープン戦のMVPだ」と言って表彰されました。舞い上がりましたね。その流れで中日との開幕カード第3戦の先発も言われました。張り切って、すごく緊張して臨んだ初登板でしたが、1回1/3を5失点でボコボコ。そこで初めてプロはとんでもないところだと実感しました。大人は怖い、とんでもない世界だとだいぶ遅れて気づいたものです。

――ショックは大きかったですか。

木佐貫 ショックというか、やられたなという気持ちでした。オープン戦は手を抜いていたんだなと理解しました。手痛い指導でしたね。まさにプロの洗礼です。

――打たれた中でも手応えはあったのですか。

木佐貫 いや、ダメだな、これは厳しい、と思いました。1カ月くらい勝てませんでしたから。4戦目で、ここでダメなら二軍だろうなと思ってましたが、そこで勝てたので生き残れました。

――その1年目は10勝7敗、防御率3.34で新人王に選出されました。

木佐貫 今思い返せばタイトルらしいタイトルはこれだけです。新人王は賞なので打点王のようなタイトルではないですが、これだけでも取れたのは幸運だったと思います。

――プロ生活の中でこだわっていた数字はありますか。

木佐貫 先発投手なので勝ち星に目が行ってしまいがちです。でも、だんだん年を取るにつれて、率のほうが大事なんじゃないかと思うようになりました。防御率、勝率の数字がいいほうが、チームとしていいんだろうという考えですね。

――自分の目線よりもチームとしての目線を大事にしていたのですね。

木佐貫 チームに貢献できているのかなと考えて、そこに重きを置き、相手の成績もそこを見るようになりました。

――巨人時代に肩を痛めましたが、大学時代と同じ個所だったのですか。

木佐貫 いえ、肩甲骨の下にコブみたいなものがあり、そこを手術で取ったものです。肩の関節ではないので、まだ良かったと思います。

――その後、かなり長い期間欠場しましたね。

木佐貫 そうですね。それは手術の影響というよりは、自分の実力の至らなさがありました。

――再び同じように投げられるまでにかなりの時間がかかったのですか。

木佐貫 ルーキーのころは球速150キロが出ていたのですが、手術の少し前から、なぜかだんだんスピードが落ちていきました。皆さん、ルーキーのころのイメージがあるようで、「木佐貫、どうした?」と言われるんですが、自分は同じように投げている。そこで投球スタイルを変えないとどうしようもないと思いました。だから、自分の力が戻ったという感覚はなかったです。

――具体的にどう変えたのですか。

木佐貫 テークバックをガバッと大きくとっていたのが、肩甲骨のコブにつながったと思い、小さくしました。自分で「野手投げなんじゃないのか」と思うほど、小さくしたんです。元の投げ方でスピードも出なくなり、手術をしても2年くらいくすぶってしまった。ここで何かやらないと来年で終わるなと思い、切羽詰まっていたのでフォーム改造に着手しました。

――その結果、キャリアハイの12勝を挙げました。

木佐貫 年間通して結果が出てくれましたね。

2007年は手術を経て、フォーム改造に取り組んだ結果、キャリアハイの12勝をマーク。ドミニカ共和国のウインター・リーグに挑んだことも、大きなプラスに



――フォーム以外の投球術、打ち取り方も変えたのですか。

木佐貫 2007年ごろは術というほどのものではなかったですが、以前のように真っすぐで押せないので、低めに集めることを心がけました。ルーキーのころは三振を取っていましたが、低めに集めて内野ゴロでアウトを取る考えに変わりました。三振を取ろうという発想がなくなり、三振の数も減っているはずです。

――それでも、木佐貫さんは、フォークで三振を取るイメージが強いです。

木佐貫 フォークは決め球として使ってました。空振りが取れればいいなという感覚で、三振!三振!という感じではなくなりましたね。

――その後良い成績を継続できなかったですが、今振り返るとどうですか。

木佐貫 現役のころから十分自覚はしていたのですが、好成績を残せたシーズンがあっても、それがなかなか続かなかった。当時は一生懸命もがいていたと思いますが、つかみ切れなかったですね。自分でもなぜかは分かりませんでした。

――08年に金本知憲選手(阪神)への死球の影響で調子を崩したと言われましたが、実際はどうでしたか。

木佐貫 結構心配されて二軍にも行きました。前年に比べて成績が悪くなったので、そう言われましたね。でも、当てた翌日に金本さんに謝りに行ったら、「前に死球を食らったときからヘルメットにクッションを入れているから、当たっても全然平気やで。これでインコースが投げられなくなると、つまらんで。次に投げるときもインコース投げてこいよ」と言ってくれたんです。おかげで、自分の中にしこりは残りませんでした。本当に温かい言葉をかけてくれて良かったです。そこでどやされていたら、ピッチャーとしてやっていくのは厳しかったと思います。

日本ハムのファンは優し過ぎるほど温かい


10年に巨人からオリックスへ移籍。さらに、13年にはオリックスから日本ハムへ移籍した。セ・リーグとパ・リーグの違い、それぞれの球団のファンの気質をどう感じていたのか。

オリックス時代には関西のファンの強烈さを知ったという



――10年にオリックスに移籍して、再び10勝を挙げました。リーグでスタイルの違いなどを感じましたか。

木佐貫 パ・リーグは、分かっているのにあえて真っすぐを投げる力勝負のイメージがありました。でも実際に行ってみると、ち密でしたね。

――公式戦で感じたのですか。

木佐貫 感じました。単純にパ・リーグの打者は打力が高いと思いました。セ・リーグも高いのですが、ボールを飛ばす地力がパ・リーグのほうが高い。移籍した当時は、ダルビッシュ有(日本ハム)、岩隈久志(楽天)、杉内俊哉(ソフトバンク)、和田毅(ソフトバンク)、田中将大(楽天)とパ・リーグに先発ピッチャーのビッグネームが並んでました。セ・リーグは上原浩治さん、川上憲伸さんがメジャーに移り、ビッグネームは内海哲也(巨人)、吉見一起(中日)、館山昌平(ヤクルト)くらいでした。パ・リーグの強力な投手を相手にする打者たちのレベルも高い。さらに、パ・リーグはDH制がある。先発ピッチャーが代打を出されずに投げられるので、育ちやすい土壌があると思います。それに打者が対応しようとするから、どちらもレベルが上がっていく。

――次は日本ハムへの移籍です。移籍1年目にまた好成績を残しました。

木佐貫 そうなんですよね。そこも自覚はしてました。過去3球団いずれも1年目がいいんです。オールスターに3回出ましたが、すべて1年目です。そこの意気込みというか何かがあると思うんですけど、それを2年、3年続けられなかったのが、キャリアが13年で終わってしまった一つの原因です。

――日本ハムが最下位の中でチーム最多タイの9勝。苦しいマウンドが多かったと思います。

木佐貫 点が入らないなどと思うことはありませんでした。ルーキーのときと同じで、1年目なのでしっかりアピールして、「木佐貫を獲って良かったね」と球団の皆さん、ファンの皆さんに思ってもらえるように頑張りました。打線の援護がどうこうと考えることはあまりなかったです。チームが最下位なのは気にしてましたけど、先発ピッチャーとして最下位にならないような成績を収めないといけないと思ってました。

――プロで3球団目ですが、どんなところに違いを感じますか。

木佐貫 寒い北海道なんですが、球団もファンの方もすごく温かいです。外から来る人に対してウェルカム、ウェルカムという感じで、やりやすい球団ですね。

――ほかの球団と違ったいい温かさがあると思います。

木佐貫 北海道の方の道民性もあると思います。オラの町に「よく来たな」と温かく迎えてくれます。

――逆に厳しさが少し足りないと感じませんか。

木佐貫 それはありますね。関西のオリックスから移籍したので、ヤジの厳しさを感じてましたから。

――それは選手にとってどう影響するのですか。

木佐貫 良くも悪くも働きます。悪いほうに意識すると叱咤激励によって負のスパイラルにはまってしまう。でも、うまく割り切れれば、叱咤激励の激励も大事です。あまりに不甲斐ないプレーが続くと、お金を払って見に来てくれるお客さんが来なくなる。それが一番まずいパターンです。叱咤も当然プロには必要です。

――鎌ケ谷のほうが厳しいですか。

木佐貫 鎌ケ谷も同じで優しかったですよ。オリックスはそこまで厳しくないですが、阪神は大変そうでした。関西でスポーツ新聞や地元のテレビを見ながら、大変だと思いました。1面から5面くらいまで阪神ですから。注目はされているので、ミスをしたときは厳しく書かれます。

――木佐貫さんはどちらのほうが力を発揮できますか。

木佐貫 叱咤されたらマズイ、しっかりしなきゃと思いますね。まずはそうならないように努力します(笑)。それでもやらかしてしまったら、次の日の新聞はもう見ません!

心身が研ぎ澄まされ杉内相手に最高の投球


日本ハムに移った年、初めて古巣の巨人を相手に登板した。奇しくも、相手の先発は高3夏の鹿児島県大会決勝で投げ合い、敗れた杉内だった。そこで勝利を挙げて12球団から勝利を達成した。その試合が自分のベストピッチングだったと振り返る。

――13年に杉内投手と投げ合って勝ちましたね。

木佐貫 前の晩からかなり入れ込んでいました。自分で勝手に緊張して寝つけなかったです。

――あまり寝られなかった中で結果は良かった。

木佐貫 緊張しましたね。浅い眠りで心身が研ぎ澄まされました。寝不足だと感じましたが、気が張って。緊張がいいやすりとして、自分の心身をきれいに研いでくれました。

――なかなか自分でコントロールできるものではないですよね。

木佐貫 先発前はいつも緊張で胃が痛くなったりしました。杉内投手のときは自分で入れ込んだので、心身が研ぎ澄まされたのです。

――多少寝不足でもいい結果を残せるのですね。

木佐貫 緊張して臨むので、多少の寝不足はあるものです。でも、最近の若い子は「前の晩よく寝れました」「楽しめました」と言いますが、ちょっと何か自分と違うなと思います。

――何か対策はしたのですか。

木佐貫 前日によく寝られないことが多かったので、登板の前々日によく寝るようにしましたよ。

――では、13年間のキャリアの中で一番苦手だった打者は誰ですか。

木佐貫 さきほども話題になった金本さんです。1年目は20打数10安打とバシバシ打たれ、最初から苦手意識ができました。その後に頭部死球があり、相性が悪かったですね。

――相性の良かった打者はいますか。

木佐貫 いい人はあまり覚えていないんですよ。杉内投手との投げ合いはよく覚えていますが、抑えた試合よりも打たれた試合をよく覚えています。カモにした打者は記憶にないですね。

――すごいと思った投手は誰ですか。

木佐貫 最近ではチームメートだった大谷翔平ですね。ものすごいなと見てて思いました。若いころは、1年目の印象が強いので上原さんです。

――大谷選手のすごさはどんなところですか。

木佐貫 体格と投球スタイル、スケールの大きさですね。しかもすごく練習熱心。ひたすら野球の練習をやっている。素材プラス練習熱心さで今年3年目で、才能が掛け算で加速度的に伸びている気がします。

――木佐貫さんも練習の虫というイメージです。

木佐貫 (笑)。練習はどちらかというと長くやるほうでした。でもプロは長くやるよりも結果を出さなければならない。そこが13年間で終わってしまったなという部分です。

――引退試合はすごくテンポ良く強力な打者を打ち取りました。まだ行けると思いましたが。

木佐貫 不思議とあの試合は良かったです。これをファームでのレギュラーシーズンでやっておけよと思っていました。去年一軍で1勝しかできなかったので、今年活躍できなかったら辞めると決めて臨みました。それなのにファームで0勝6敗、防御率7点台。やらなきゃ終わりと退路を断って臨んだのに一軍に上がれず、ファームでもこの成績。「お前、これかよ!」と自分に怒ってました。

9月30日のロッテ戦[札幌ドーム]が引退試合。デスパイネ、井口を空振り三振、クルーズを二ゴロに打ち取る完ぺきな投球を見せた



――今年は、自分でももどかしかったということですね。

木佐貫 引退試合でいいピッチングをしてあらためて「しっかりやっとけよ」という気持ちが強くなりました。

――ただ、やってきたことが、あの場面で出たのかもしれません。

木佐貫 そうかもしれないですけど、プロのアスリートとしてはそれではダメです。一発勝負で、みんなが期待しているところで期待以上のパフォーマンスを出せるのが一線級で活躍している選手だと思います。そこに及ばなかったです。

――引退を決めたのはいつですか。

木佐貫 9月半ばに戦力外を言われました。夏ごろには言われるだろうと予想してました。覚悟はしていましたが、実際に言われてから野球を続けるかどうか、悩みましたね。それだけ腹をくくって臨んだのに、いざ言われるとこんなに悩むものなのかと思いました。

――やり切った!という引退ではないですよね。

木佐貫 そんな風な終わり方ではなかったですね。でも、やり切ったと思って引退する選手のほうが少ないでしょう。

――今年のファームでの試合も見ましたが、最後の投球を見たら、もっと見たいと思いました。

木佐貫 後悔はありますが、引退は自分で決断して納得しています。

――今後の予定は?

木佐貫 大学を卒業してから13年間はプロ野球の世界で生きてきたので、そこに携われたらいいですね。

――引退して時間ができれば、趣味に費やす時間も増えますね。

木佐貫 趣味も楽しみたいですが、もし来年以降もプロ野球の世界に携われることになれば、2、3年は見習いのようなものです。慣れないといけないので、いろいろやっている余裕がないかもしれません。テンパっていると思いますよ。



木佐貫洋の“忘れじの出来事”


 98年夏、鹿児島県大会決勝で杉内俊哉がエースの鹿児島実高に1対3で敗れ、高3夏の甲子園出場を逃した。それから15年後、プロ野球の舞台でリベンジの機会を得た。緊張で前夜からよく眠れなかったというが、それでも感覚が研ぎ澄まされ、プロ野球人生の中でも最高のピッチングができたという。7回5安打1失点で勝利をつかんだ。自身にとって巨人相手の初登板をものにし、全12球団勝利を達成した。

PROFILE
きさぬき・ひろし●1980年5月17日生まれ。鹿児島県出身。川内高から亜大を経て自由獲得枠で03年巨人入団。首脳陣の期待に応え、10勝7敗、防御率3.34で新人王に選出される。05年に右肩甲骨下の手術を受け、07年に復活の12勝。10年にオリックス、13年に日本ハムへ移籍し、15年限りで現役を退いた。
惜別球人

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惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

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