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日本ハム時代にはストッパーとして最優秀救援、ダイエー時代には先発として最多勝を獲得した武田一浩氏、中日に入団し、いきなり最優秀救援と新人王を獲得した与田剛氏が「プロ野球チームをつくろう!」に登場。2人は「昭和40年会」の同級生。ストッパーの話、同級生の話などを語っていただいた。

僕らがやっていた時代のストッパーは試合数の倍ぐらいのイニングを投げていた




――「プロ野球チームをつくろう!」を見ていただきましたが、いかがでしたか。

武田 監督ができて、自分の好きなチームを作れるんだから面白いですね。ユーザーさんもこのゲームで野球の知識をより深めていくんじゃないですか。

与田 このようなゲームがあると、ユーザーさんのほうがより詳しく選手の情報を持っていそうなので、武田や僕のように解説の仕事をしているものにとってはプレッシャーですよね。

――このゲームで知識を深めていくユーザーもいます。

武田 与田や僕はメジャーの中継も多いので、日本のプロ野球ではなく、そちらの方を多く見ている場合がありますからね。

与田 ゲームの一番の魅力は、自分でチームを作れることですよね。

――そうです。

武田 監督ができて、自分の好きなチームを作れるんだから面白いですね。

――武田さんは88年に日本ハムに入団して3年目の90年から2年間ストッパーを任されて、与田さんも90年のルーキー時代にストッパーに抜擢され大活躍しました。ストッパーとはどんなポジションでしたか。

武田 僕らがやっていた時代のストッパーは、試合数の倍ぐらいのイニングを投げてましたからね。

与田 僕の1年目は50試合に投げて88回1/3だから倍までは行かなくても結構投げましたね。

――90年を調べてみたのですが、2回1/3以上投げた試合が、武田さん、与田さんともに11度もありました。

与田 どのチームのストッパーもイニングまたぎは当たり前だったですよ。セ・リーグは延長15回までありましたし(パ・リーグは延長12回)。

武田 この年、最初は先発で投げていたんですけど、オープン戦の頃から近藤(貞雄)監督が「武田ストッパー構想」を描いていたようで、先発で勝てなかったので、待ってましたとばかりに後ろに回されました。

 最初は先発の島田直也を6回からリリーフした試合(90年4月28日のダイエー戦、3対2でリードの場面)。すぐに同点に追いつかれて、マウンド上で近藤監督に「責任を取るのはオレだから」と言われて、気持ちがよみがえって、延長10回まで5イニングを投げて勝ち投手になった。監督がそう言ってくれたことで気持ちが楽になったのことをいまでも覚えてますよ。



与田 僕は先発要員ということで入団したつもりが、ストッパーの郭源治さんが故障をして、開幕直前に星野(仙一)監督に「ストッパーをやれ」と言われました。先発のつもりでいたので「エッ」と思いましたが、試合を締めくくるところを任せられることは嬉しかったですね。ただ怖さもありました。投げれば投げるほど怖さが増してこなかった?



武田 それはなかった。2年間で先発も中継ぎも経験していたし、先ほどの近藤監督の一言で気持ちも楽になったし、乗って行けてオールスター前まで9勝2敗9セーブでしたからね。

――当時の記録、12試合連続セーブポイントもマークしました。現在は1イニング限定のストッパーが多いですが、当時は7回途中からということも多々ありました。長いイニングを投げるので、力をセーブするということはあるのですか。

武田 全然なかったですね。そんな余裕はないし、いつも全力だった。いまの1イニング限定の方が僕はイヤかもしれませんね。

与田 1イニング限定の方が抑えなきゃならないプレッシャーは増すような気がします。長いイニングの方が、「これだけ投げてるんだから、しょうがないな」ぐらいに考えますね。

武田 そういうことはありますね。仮に負けても翌日があるから、あまり気にしないようにしていたし。

与田 それは僕も思いましたね。最初はストッパーを意気に感じ過ぎていた部分もあって、失敗するとすごく考えることもあった。でもアマチュアと違って毎日のように試合があるので、すべてを背負ってたらとてもじゃないけど1年間持たない。実際そうは思っていないのですが「使った監督が悪い」ぐらいの感覚を持たないと無理だった。

武田 負けた時は無理矢理リセットするんですよ。次の日にグラウンドに行っても表情に出さないようにしてましたね。

――当時は登板する場面も分からないので、ブルペンでの準備も大変でしたよね。

与田 そうですね。ブルペンでほとんど何もやっていないのに「行け」と言われたこともありましたから。1イニング限定で言えるのは準備がしやすいことですかね。

武田 僕の時にはエースに西崎(幸広)さんがいたので、勝っている時は完投してくれるから、1週間に1回は投げなくて良かった(笑)。柴田(保光)さんや酒井(光次郎)の時には早くから準備をしなければならなかった。

与田 リリーフ陣にとって誰が先発するかというのは大事ですよね。完投能力がある先発、あまりない先発によって、僕らの気持ちも変わりますからね。

――毎日ブルペンでは肩を作るわけですよね。

武田 でもストッパーは投げない日もあります。中継ぎが一番大変ですね。

与田 僕は6回ぐらいから作っていたけど、武田はどう?

武田 僕は10球投げれば行けたので。当時、西武の鹿取(義隆)さんは0球でできてましたよ(笑)。

与田 その時代は、そういうこともストッパーとして大事なことでしたよね。いつマウンドに上がるか分からないですから。

武田 慣れもあるんですよね。不思議なことに先発の場合は10球じゃマウンドに上がれないんです。先発の時は36球か41球を投げてマウンドに行ったんですけど、力を入れて投げるのは5球程度。あとは気持ちを静めるために投げているような感じでしたね。

与田 先発の初回は、ストッパーの最終回と同じぐらいの緊張感がある。立ち上がりに点を取られると、すごく後悔しますね。もっと準備をしておけば良かったと。

武田 ストッパーの時は、ブルペンで少ない球数を力を入れて投げてマウンドに向かう。本拠地だとファンが沸くんですよ。それで気持ちが入る。ただ東京ドームだと室内(ブルペン)からなので、自分の名前がコールされる直前に出て行って、ファンの歓声が高まる時に自分の気持ちも入れる感じですね。

与田 室内のブルペンはシーンとしてますからね。そこから別世界に入っていく感覚ですね。

武田 ナゴヤ球場は観客席から見えるところにブルペンがあったよね。

与田 これもまた醍醐味なんですよ。球場がストッパーを迎える雰囲気にどんどん変わっていくのが分かる。いま日本の球場のブルペンは室内も多くなってますが、メジャーではブルペンがファンから良く見えるところにあって、そこにもう一つの球場があるような感じですよね。ストッパーがマウンドに上がる時の盛り上がりは、エンターテインメントとして好きですね。

武田 登場の仕方がかっこいい。



高校時代の同級生はテレビでしか見たことがない憧れの存在だった




――お二人はプロ入りの年度は違いますが同級生。90〜91年はリーグは違いますが、同じストッパー。ライバルとしての意識などはあったのですか。

武田 与田は大学の時から知っていたけど、当時はセ、パの交流が少なかったのであまり意識することはなかったですね。

与田 武田は大学時代から活躍していましたから、次元が全然違っていた。僕は大学3年の時に手術もしているし、実力的にも下だったので、ライバルという立場ではなかったですよね。交流戦もなかったし、たまに会うとものすごく懐かしいという感じもしました。

――同級生には活躍選手も多く、特に高校からプロ入りした投手は、お二人が入団した時には主力も多かったですよね。

与田 水野雄仁巨人)、渡辺久信(西武)、小野和義(近鉄)、山本昌(中日)、星野伸之オリックス)、加藤伸一(ダイエー)、津野浩(日本ハム)……。リーグが違っても同い年や同期入団の選手の姿は刺激になりましたよね。

――やはり「高卒組」は気になる存在でしたか。

武田 大学の時は気になってました。



与田 大学時代、活躍は知ってましたけど、僕はそのレベルじゃなかったので「すごいな同い年なのに」と感じているだけでした。

――自分が同じプロの舞台に立つとは?

武田 目指してはいましたけど、そうは思わなかった。

与田 まったく思ってなかったですね。目指している状況でもなかった。

武田 もう高校の時にドラフトに掛からなかった時点で「落ちこぼれ」と思いましたからね。ドラフトされた選手からかなり離されていると感じました。僕はたまたま水野がいた池田高と試合をしたことがあって、そこで水野と仲良くなったんですが、彼のプロ入り後もたまに会っていて、プロとの差を感じましたよ。

与田 でも武田も水野と対戦できるレベルにいたんですよ。僕は強豪チームと練習試合もしたことがなかった。同い年でもテレビでしか見たことがないし憧れの存在だった。プロ入りして、甲子園で活躍した彼らと会った時は嬉しかったですよ。



武田 みんなプロになりたかったわけですからね。

――プロ入り後、その同級生と相対するわけですが。

武田 同級生との先発対決の時は負けたくないという気持ちは強かったですね。リリーフの時はバッターの同級生、佐々木誠岸川勝也(ともにダイエー)、村上嵩幸(近鉄)らに投げづらい感覚はありましたね。

与田 インコースに行きづらかったというのはあるかもね。

――与田さんはいかがでした。

与田 僕は同じチームに7年目の山本昌がいて、一緒に食事をしたりして、プロとはどんなものかを教えてもらいましたよ。彼もなかなか芽が出なくて、自由契約寸前までいって、その危機を乗り越えて活躍し始めた頃ですからね。僕もエリートだったわけではないので、すごく親近感が沸いたし、同い年でも彼を目標にしてましたね。



PROFILE
たけだ・かずひろ◎1965年6月22日、東京都世田谷区生まれ。明大中野高から明大を経て88年にドラフト1位で日本ハムに入団。91年に最優秀救援のタイトルを獲得。96年にダイエーに移籍すると自己最多の15勝。98年には13勝で最多勝を獲得。99年にはFAで中日に移籍しリーグ優勝に貢献。02年には巨人に移籍し、史上3人目の全球団からの勝利を挙げた。02年限りで現役を引退。通算成績は341登板、89勝99敗31セーブ、防御率3.92。

PROFILE
よだ・つよし◎1965年12月4日、千葉県君津市生まれ。木更津中央高から亜大、NTT東京を経て90年にドラフト1位で中日に入団。1年目にストッパーとして新人では最多となる35セーブポイントで最優秀救援と新人王を獲得。3年目の92年にもリーグ3位の25セーブポイントをマーク。96年シーズン途中にロッテに移籍。98年にはテストを受け日本ハムに入団。00年に阪神に移籍し、その年限りで引退した。通算成績は148登板、8勝19敗59セーブ、防御率4.58。

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