週刊ベースボールONLINE

 

MVPは、日米問わずプロ野球選手にとって最大の名誉だが、その認識にかなりの差があるようだ。日本では今シーズン両リーグとも投手が選ばれたが、ナ・リーグではドジャースのクレイトン・カーショウ投手が選出された。投手の選出は珍しく、ナ・リーグで投手がMVPになったのは、1968年のボブ・ギブソン(カージナルス)以来、実に46年ぶりのことである。今回は日米のMVPに対する認識の差を考えてみたい。
千葉 功(プロ野球アナリスト)

MVP投票においては投手は不利のメジャー


 アメリカで野球記者協会(BBWAA)の手によってMVPの投票が始まったのは1931年である。

 31年から37年は各リーグの本拠地から選ばれた1人の記者(当時は8人)、38年から60年は3人、61年からは2人の投票で決められる。

 現在では両リーグとも15地区からの30人の記者の10人連記制による。1位に14点、2位に9点、3位に8点、……10位に1点で計算される。今年のア・リーグのMVPに輝いたエンゼルスのマイク・トラウト外野手は1位票30票を独占したので、得点は14×30で420点である。

 両リーグのMVP投票の得票10位までに入った投手は、ナ・リーグは1位のカーショウのほか、8位にカージナルスのウェインライト(20勝9敗、防御率2.38)ひとりだけで、ア・リーグでは10位にマリナーズのヘルナンデス(15勝6敗、防御率2.14)しかいない。

 メジャーでは56年にサイ・ヤング賞が設けられてから、記者たちは「5試合に一度しか出てこない投手は、毎日プレーする野手とは同じように比較できない。投手のためにはサイ・ヤング賞がある」として、投手への投票が少なくなっている。

 MLB事務局では投票する記者に「先発投手、救援投手を含め、すべての選手にMVPに選ばれる権利がある」という通達を出しているが、MVPの投票では投手の影は薄くなる。

 31年以降に、投手で選出されたのはア・リーグは12人、ナ・リーグでは今年のカーショウで8人目。カーショウはサイ・ヤング賞もこの4年間で3度目の受賞。MVPとの同時受賞は11度目である。

 メジャーのMVPの定義は「傑出した選手」であることだが、最近は優勝に貢献した選手が重要視されている。ナ・リーグでは58年に8球団中の6位、59年は同率5位のカブスからアーニー・バンクス遊撃手が選ばれていた。2年連続打点王(58年は本塁打王で2冠王)のタイトルが評価されたものである。

 87年には東地区6球団中で最下位のカブスからアンドレ・ドーソン外野手がナ・リーグのMVPに選出された。本塁打と打点の2冠が評価されてのことである。だが、この年のカブスは首位と18.5差。こうした個人記録重視のMVPも最近は少なくなっている。90年以降の両リーグ各25人のMVPを見ても、ア・リーグは20人、ナ・リーグも15人は各地区の優勝チームから選ばれている。

 日本でもチーム順位に関係なく、MVPが選ばれていた時代がある。プロ野球誕生2年目となる37年秋はタイガースが優勝したが、最高殊勲選手(当時の呼称)には3位イーグルスのバッキー・ハリス捕手が選ばれた。三番に座って打率.310をマークしたほか、春は勝率.214で最下位のイーグルスを秋は勝率.596で3位に押し上げた功績を評価されたものだ。

 翌38年春には勝率.382で5位のセネタースから、二塁を守っていた苅田久徳が選ばれた。優勝したタイガースには、11勝4敗の西村幸生、10勝1敗の御園生崇男の両投手、2位の巨人には14勝3敗で最多勝のスタルヒン、打率.345で首位打者になった中島治康がいたのに、苅田がMVPになった。

 弱いセネタースで一番に定着し、シーズン最後の2日間に4本打ったハリスに本塁打王は奪われたが、セネタースの7本塁打のうちの5本を放っていた苅田は飛び抜けた存在であった。しかし、同年秋に優勝した巨人から中島(三冠王)が選ばれて以来、最高殊勲選手は必ず優勝球団から選ばれていた。戦後復活1年目の46年から、最高殊勲選手は優勝球団から選ばれるようになったが、49年になると優勝球団という原則にとらわれず、2位以下の球団からも選ぶように連盟評議委員会から提案があった。だが結論はすぐに出ず、選考はすべて野球記者倶楽部に任せることになった。

 その結果、8球団中の6位であったタイガースの藤村富美男三塁手が、最高殊勲選手になった。2位の阪急に16ゲームの大差をつけて戦後初優勝した巨人には24勝7敗の藤本英雄、打っては一番に定着し、打率.307でリードオフマンを務めた千葉茂、打率.330で129打点の川上哲治がいたが、藤村が46本塁打を放ち、それまでの本塁打記録25本を大きく更新したことが高く評価されたものである。

 この藤村以後は優勝球団以外から選ばれるMVPは非常に少なくなった。2リーグ制になった50年以降に、優勝球団以外から選出されたMVPは次の13人である。

●63年 野村克也(南海) 捕手
●74年 王 貞治(巨人) 一塁手
●80年 木田 勇(日本ハム) 投手
●82年 落合博満ロッテ) 内野手
●85年 落合博満(ロッテ) 内野手
●88年 門田博光(南海) 指名打者
●90年 野茂英雄(近鉄) 投手
●94年 イチローオリックス) 外野手
●04年 松中信彦(ダイエー) 内野手
●05年 杉内俊哉ソフトバンク)投手
●08年 岩隈久志楽天) 投手
●13年 バレンティンヤクルト)外野手
●14年 金子千尋(オリックス)投手

 63年の南海は西鉄に.007の差で優勝を逸したが、野村は50年の小鶴誠(松竹)の51本塁打を63年ぶりに更新する52本を評価されたもの。同時に野村は150試合、1365イニングすべてに出場の超人的な記録を樹立していた。

 74年の王はその野村を更新する55本の新記録。80年の木田は新人ながら防御率2.28を筆頭に、勝率.783、奪三振225と投手のタイトル独占。82、85年の落合は三冠王になっていた。88年の門田は40歳でありながら本塁打、打点の2冠だ。

 90年の野茂は木田の再現。94年のイチローは日本で初の200安打で首位打者。04年の松中は三冠王であり、05年の杉内と08年の岩隈は防御率に最多勝の2冠。13年のバレンティンは55本塁打の本塁打記録を更新する60本。大記録を達成すれば優勝しなくてもMVPは可能ということ。それはまた、優勝球団の選手でなければ、よほど活躍しなければMVPへの道は閉ざされるということだ。


今年のNPBのMVPはパが金子千尋、セが菅野智之。両リーグともに投手が選出された



優勝球団から選出されるケースが多いNPB


 メジャーに比べると、投手のMVPが非常に多いのも日本の特徴である。80年以降、打者でセが23人、パは17人で合計40人、投手はセが12人でパが18人で合計30人だ。特に継投策が主流となると、セーブ数が決め手になったのが、セでは88年の郭源治中日)と98年の佐々木主浩(横浜)にパでは81年の江夏豊(日本ハム)と3人も出ている。セーブばかりか、11年のセ・リーグには中日の浅尾拓也が79試合に登板して0.41の圧倒的な防御率に7勝10セーブ45ホールドでMVPに選出された。

 投手に有利な日本のMVPだが、打者に比べ、MVPとしての投手の水準低下も問題になってきそうだ。

 先発投手でありながら11勝7敗でMVPに輝いたのは99年の工藤公康(ダイエー)である。防御率2.38は1位であったが、11勝は8位。最多勝の松坂大輔西武)は16勝もしているのに11勝の工藤受賞となったのは優勝球団に所属したからである。

 この99年はセ・リーグのMVPにも問題があった。中日の野口茂樹が552点で1位、巨人の上原浩治が536点で2位であったが、1位票は野口の59票に対して上原は80票。上原を1位にした票がはるかに多かった。もし、メジャー並に1位14点、2位が9点であったら逆転していたところだ。現在は1位票5点、2位票3点、3位1点で計算する。最後に最優秀選手の定義をパのアグリーメントより紹介しておこう。「最優秀選手とは、レギュラーシーズンにおいて、技能精神ともに最も優秀にして衆に範たるものと認められ、プロ野球の技術と道義の発達向上に著しく貢献した選手をいう」。セにこの規定はない。
記録の手帳

記録の手帳

プロ野球アナリスト千葉功によるコラム。様々な数値から野球の面白さを解説。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング