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楽天5位・石橋良太 野手への未練を断ち切った大学時代の敗戦

明徳義塾高から拓殖大へ進学。卒業後はHondaへ入社し、エースとして活躍を見せ、プロ入りの目標を達成した

 

投手よりも野手の方が楽しい。高校時代は野手として活躍


「大学時代の覚悟が実を結んだのか……」

 22日に行われたプロ野球のドラフト会議で、あるひとりの投手の名前を見た時、感慨深いものがあった。東北楽天に5位指名を受けた石橋良太(Honda)だ。彼にインタビューをしたのは拓殖大4年の春。投手として生きる「覚悟」を決めたのは、その1年半前だった。

 実は、石橋はずっと野手を希望していた。小学校時代にはエースとして公式戦で58連勝という大記録を打ち立て、2度も全国優勝をしたにもかかわらず、「長い時間、抑え続けなければいけない投手と違って、大事なところでヒットを打てばその瞬間にヒーローになれる野手の方が何倍も楽しい」と、中学では遊撃手となった。

 進学した明徳義塾高でも内野手として入り、1年秋には二塁手のレギュラーを獲得。2年春にはセンバツに出場し、2回戦の中京大中京高戦でサヨナラ打を放つなどして活躍した。

 そんな彼が投手への転向を余儀なくされたのは、高校2年の夏だった。高知県予選を前に、馬淵史郎監督に呼び寄せられた石橋は、こう言われた。

「ちょっと投げてみろ」

 すべてはこの言葉から始まったのだ。

 当時、エース不在というチーム事情を考えれば、石橋には監督の考えはわかっていた。本音は野手でいたいという気持ちでいっぱいだったが、力をごまかすわけにはいかなかった。結局、石橋は新チームのエースとなり、それ以降、投手としてチームを支えた。3年春には県、四国で優勝。夏は決勝で1点差に泣き、甲子園のマウンドを踏むことはできなかったが、それでも石橋の投手としての実力を証明するには十分と言えた。

 それでも野手としての道を捨てきれなかった。できれば、大学では野手に戻りたいと考えていた。しかし、彼が1年時の拓殖大は投手のコマ不足というチーム事情を抱えており、石橋は投手と内野手を兼務せざるを得なかった。

 さらに結果も彼を悩ませた。投手としてはロングリリーバーとして1年秋には4勝(3敗)を挙げ、防御率はリーグトップの1.57と好成績を残した。一方、自らは本職と考えていた野手としては打率1割台と振るわなかった。監督との話し合いの結果、石橋は投手に専念することとなった。

 2年秋にも最優秀防御率をマークするなど、投手としての石橋は順調そのものだった。しかし、やはり彼の心のどこかには野手への願望があった。

 そんな石橋に「覚悟」を決めさせる出来事が起こった。秋のリーグ戦、2部で優勝した拓殖大は、1部最下位の中央大との入れ替え戦に臨んだ。1戦目、9回からリリーフした石橋は、それまでの自己最速を3キロも上回る時速149キロをマークするなどして、延長13回まで無安打に封じ、サヨナラ勝ちを呼び寄せる快投を演じた。

 ところが、1勝1敗で臨んだ3戦目、先発した石橋は初回に2失点、2回にも集中打を浴び、ひとつもアウトを取れないまま降板。結局、拓大は5-7で敗れ、悲願の1部昇格をあと一歩のところで逃してしまったのだ。

 実は石橋には異変が起きていた。第1戦の翌日、肩がまったく上がらなかったのだ。快投と思われたピッチングは本人曰く「興奮状態を抑えきれないまま、後先考えずに投げた結果」だったという。

「自分が冷静にピッチングをして、第2戦、第3戦でも実力を出していれば……」

 石橋にはそんな後悔の念が沸き起こっていたのだろう。1部昇格を逃した結果に「申し訳ない気持ちでいっぱいだった」という。

 しかし、この敗戦が野手への未練を払拭した。

「心のどこかで『自分は野手に戻りたいのに』ということを言い訳にしていたところがあったと思うんです。でも、その気持ちを捨てて、これからは投手として頑張っていこうと決めました」

 この時の「覚悟」がなければ、今の石橋はないと言っても過言ではないだろう。

 投手として生きることを決めたことが正解だったかどうか。その本当の答えは、石橋自身がプロのマウンドで見せてくれるに違いない。

文=斎藤寿子 写真=BBM
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