歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 プロ3年目にノーヒットノーランも
1945年、終戦。それまでに多くのプロ野球選手が兵役に取られ、戦火に消えていった。戦死した選手たちの慰霊のために建てられ、現在も東京ドームの脇にたたずんでいる「鎮魂の碑」には、69人の名が刻まれている。そのうち、自ら特攻機を操縦して戦死したのが、名古屋(現在の
中日)の石丸進一だった。
佐賀県の出身。プロでの身長、体重の記録は残っていない。野球は8歳の差がある兄の藤吉を追うように始めた。兄と同じ佐賀商に進み、2年生でエースに。だが、甲子園への出場はなく、プロや有力な社会人チームから誘われることもなかったという。藤吉はプロ野球が始まって2年目の37年に名古屋へ入団。38年の春季を最後の応召し、中国戦線にいた藤吉に、進一は「名古屋に入りたい。口をきいてくれないか」と何度も手紙を書いた。藤吉は、「こっち(中国戦線)へ来てから進一が野球をしている姿は見てなかったし、プロは大変ですからね」(藤吉)という思いから、返事で別の道を進むことを勧めたという。
だが、もちろん兄へのあこがれ、野球への思いもあったが、進一は苦しい家計の中、自分を佐賀商へ進ませてくれた父に、すぐにでも金を稼いで親孝行をしたいと考えていた。これに藤吉が折れて、41年に入団を果たす。ポジションは、かつて兄が守っていた二塁。“敵性スポーツ”と言われて、軍部にも目をつけられていた当時のプロ野球にあって、球団代表を務めていた赤嶺昌志の「『兄さん、銃後は任せておけ』ということで、軍部の印象もよくなる」というアイデアだった。その兄が8月に復帰、遊撃に回ったが、兄弟の二遊間が定着せず。遊撃には名手の
木村進一がいて、進一は出場機会を減らしていった。
しかし、投手にこだわりがあった進一。それまでも打撃練習で投げたことはあったが、打者の評判は芳しくなかった。練習であっても、常に全力で投げ込んだからだ。翌42年、ついに投手として登録されると、いきなり初登板で被安打2の完封、そのまま投手陣の軸となって17勝19敗。チームが39勝60敗だったから、その存在の大きさが分かる。翌43年にはノーヒットノーランを含む20勝を挙げて、防御率1.15はリーグ4位。名古屋も2位に躍進した。ほかの多くの選手と同様、兵役を回避するため日大法科に籍を置いていた進一だったが、オフに学徒出陣で兵役に。11月23日、東西対抗の第6戦が最後の登板となる。結果は完封だった。
一球入魂の右腕
戦局は悪化の一途。45年に入り、進一は海軍で特攻隊に志願する。海軍で野球が禁止されていなかったことが唯一の救いだった。暇さえあれば赤嶺に送ってもらった硬式球でキャッチボールをしていたという。出撃、つまり特攻の命令が出たのは5月6日だ。進一は、日大三中で甲子園に出場し、法大では一塁手だった少尉の本田耕一を相手に、10球だけと決めてキャッチボール。「これで思い残すことはない。報道班員、お元気で。さようなら」と言ってグラブを放り投げた。
このときは悪天候で出撃しなかったが、この報道班員が作家の山岡荘八で、その手記から、「最後のキャッチボール」として、のちに広く知られるエピソードとなる。そして5日後の11日。常に手放さなかった硬球を操縦席から投げて、朝6時50分に出撃した。消息を絶ったのは午前10時18分。米軍の記録には、艦隊に激突した事実は残っていないという。
登板のない日には「遊撃を守らせてくれ」と言って監督を困らせることもあった。すこしでも試合に出て稼ぎ、親孝行をしたかったのもあったが、何よりも野球が好きだったのだ。進一とバッテリーを組んだ
古川清蔵は振り返っている。
「スリークオーターからの回転がいい、伸びあがるような球だった。
シュートとドロップがよかったのと、あとは気迫だね。一球入魂の投手だった」
通算99試合登板、37勝31敗、防御率1.45。戦後、2リーグ制となった50年に松竹でプロ野球に復帰して、助監督も兼ねた藤吉も、のちに回顧している。
「兄だから言うわけではなく、私はあんな野球好きと会ったことがない」
文=犬企画マンホール 写真=BBM