笑顔ではあったが、目は真っ赤だった王
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は11月4日だ。
1980年オフ、
巨人は大きく揺れた。
10月21日、ミスタージャイアンツと言われる
長嶋茂雄監督が事実上の“解任”。巨人ファンがこれに猛反発し、78年オフ、「江川事件」のときにもあったが、親会社・読売新聞の不買運動まで起こる騒ぎとなった。
11月4日、今度は世界のホームランキング、
王貞治の引退と助監督就任(すでに
藤田元司監督の就任は発表されていた)の会見が行われた。通算本塁打は868本、いまなお世界最多記録である。
80年は、王にとって現役22年目、10月5日には21年連続の100安打、12日には19年連続の30本塁打を記録し、力の衰えは隠せないにしても、まだ十分できるのではないかと思われた。
それでも王は言った。
「口はばったい言い方になるかもしれませんが、王貞治のバッティングができなくなったのが一番の理由です」
笑顔ではあるが、大きな目には涙が浮かんでいた。多くのファンがショックを受けたが、同時に「王貞治のバッティングができなくなった」という言葉で納得した部分もあった。
当時、王は歴史上の偉人のような存在だった。「30本で引退」はさびしかったが、「さすが王さん、カッコいい」と思ったのだ。
ただし、スムーズにはいかなかったようだ。シーズン終盤、長嶋監督にも引退の意思を告げ、何度も強く慰留された。決意は変わらなかったが、発表のタイミングを考えていたとき、その長嶋監督が突然の辞任……。
さらに藤田新監督から「選手と助監督の兼任」の依頼を受け、心が揺れる。「正直、二足のわらじを考えなかったわけではありません」と明かす。
応援してくれたファンの気持ちを考え、「ONがいなくなり、不安に思うのでは」と危惧したからだ。ファンのために戦う。それが王貞治という選手だった。美化するわけではない。当時の王は、本当にそういう存在だったのだ。
最終的には自らの美学を貫き、引退を決める。もう迷いはなかった。
引退の翌5日には早くも藤田新監督とともに多摩川の練習場に現れ、背番号1のまま助監督生活をスタートさせる。
11月23日、ファン感謝デーが引退試合だった。最後、後楽園の一塁ベースの上に、静かにファーストミットを置く。すでに引退発表から時間が経っていたこともあり、74年、長嶋引退試合のような感傷的な雰囲気はなかったが、ある意味、王らしく静かで厳粛、そして誠実さが伝わる引退セレモニーだった。
写真=BBM