36試合を交流戦に

70年、東京スタジアムで優勝が決まった際の永田オーナー
日本では2004年、近鉄と
オリックスの合併、さらには1リーグ制移行寸前まで進んだ球界再編問題の後、05年からスタートしたセ・パの交流戦。メジャー・リーグではストライキによるファン離れから1997年にイン
ターリーグが誕生している。それ以前にも導入が叫ばれながら、すべて立ち消えとなったが、要は、既存の常識を崩すのは、大きな危機感しかないという好例かもしれない。
日本で「交流試合」をいち早く提唱した球団オーナーは東京(現
ロッテ)の永田雅一オーナーだ。しかも、発表が1967年だったというから驚く。
簡単に流れを紹介する。
1967年10月21日、
巨人−阪急の日本シリーズ第1戦が行われた日の夜に開かれたオーナー会議で、東京の永田オーナーが記者団を集めた。永田ラッパ(派手なことばかり言っていた)が、また何を言い出すのか、と集まった記者団に配られたのは、真ん中に「新提案」とゴシック体の活字で刷りこまれ、左下には「公式戦には両リーグチームの交流」、右肩には「昭和四十三年度試合に対する」と印刷されているパンフレットだったという。
パンフレットを配った永田オーナーが語ったのがセ・パ交流試合の提案だった。そのパンフレットは以下の文面から始まる。
「わが国プロ野球の現状は、全球団の一、二を除いては、その経営面から見て、誠に憂うべき状態であります。かかる状態が今後も続くと、先に伝わった1リーグ還元論が再びとなえられ、十数年前に逆戻りすることになります。
われわれは今日まで、幾多の辛酸をなめ、日本プロ野球発展のために数多く尊い犠牲を払って2リーグ制を確立しました。この際、もとの1リーグ制に還元するのは実に遺憾のきわみであり、絶対に行ってはならないことと思っています」
永田会長の私案によると、各球団はそれぞれ136試合を行い、引き分け再試合は中止にしない。そして従来の1リーグ内だけの公式戦は100試合とし、残りの36試合は、両チームの交流試合とする、というものだった。
巨人も賛成の線を打ち出したが……
交流試合は6月から7月末のオールスター前の約2カ月で消化。そのうち18試合ずつをフランチャイズ球場で行う。つまり1球団は、他リーグのチームと各6試合ずつ(うち3試合はホームゲーム)を行う。オールスター戦後は、開幕時と同じ同一リーグ内の試合日程を組み、同一リーグ、交流戦とも公式戦として認める、というものである。
交流戦自体は永田のオリジナルではなく、3年ほど前、メジャーのコミッショナー、フリック氏が提案したことがある。ただ、このときは話題にもならなかった。
この永田私案に他球団もおおむね賛成。「永田提案は日の目を見る可能性が高い」と当時の『週刊ベースボール』に書かれていた。
何よりこの案を実現へ向かわせているのは、巨人が原則として賛成の線を打ち出したことだ。「プロ野球がマンネリ化している現在、交流試合案はじゅうぶんに検討する余地がある。新しい方向を見つけるためには、現状を打破する必要がある。巨人としてはプロ野球百年の繁栄が、そのまま巨人の繁栄に結び付くものだと考えている」と正力亨オーナー。
ただ、実際には読売新聞の拡張のためでもあった。大きいのは、九州での西鉄戦だ。読売は九州で九州読売を発行し、この新聞を拡張するためにも、地元で巨人の試合があるのが望ましかった。
なお、この交流試合案は結局、立ち消えとなっている。
写真=BBM