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平成助っ人賛歌

レオ・ゴメス 武井咲もファンだった!星野中日“不動の四番”/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

陽気なプエルトリカン


四番として勝負強い打撃を発揮したゴメス


 嵐のリーダー大野智は、年齢では1980年生まれの“松坂世代”なんだな。
 
 朝からずっとテレビで流れている「嵐 活動休止」のニュースを見ながら、そんなことを思った。平成後期を代表するアイドルグループの彼らのデビューは1999年11月。同年のプロ野球では、西武ライオンズの恐るべき10代・松坂大輔が1年目からいきなり最多勝に輝き、20勝を挙げた巨人上原浩治とともにルーキー投手旋風を巻き起こした。ペナントレースは王貞治監督率いる福岡ダイエーホークスが悲願の初V、セ・リーグでは中日ドラゴンズが11年ぶりのリーグ優勝を飾る。9月30日のヤクルト戦、神宮球場の夜空で7度舞い、「選手を信じてきて良かった。俺は本当に幸せな男だよ」と笑った背番号77の故・星野仙一監督。そのチームの中心にいたのは、「四番・サード」で大黒柱の活躍を見せたレオ・ゴメスだ。

 シカゴ・カブスに在籍していたゴメスは97年春に来日。当時のプロフィルは67年3月24日生まれだが、現在は66年3月2日なので実際は31歳での中日1年目となる(1歳でも若く売り込みたい外国人選手の生年月日はこういうケースも多かった。つくづくアバウトな時代である)。メジャー7年間の内、5シーズンで2ケタ本塁打の助っ人は、この年から開場した新本拠地・ナゴヤドームの広さに負けない長距離砲として期待された。初めて体験する日本のキャンプは「アーミーのようだった(笑)」と規律の厳しさに驚きながらも、内野守備連係では「サア、コイー!」なんて覚えたての日本語で声を掛けチームに溶け込み、さっそく“ゴメさん”というニックネームで呼ばれたという。

 そう、ゴメスはとにかく明るい性格だった。当時の『週刊ベースボール』でも “陽気なプエルトリカン”の見出しがおなじみで、オリックス時代のイチローが表紙を飾る97年6月2日号掲載の球界の今を映し出す「週ベ オーロラビジョン」コーナーでは、『ハシャギ回る外国版ヤジ将軍?!』とゴメスのことを紹介している。

 チームが勝っても負けても、深刻なミーティング直後でもデカい声で笑い続ける男。普段はナインから「アイツ、何考えて野球やってんだろ?」と囁かれる陽気さで、佐藤毅球団社長に対しては「シュガー(砂糖)ベリーグー、ダッハッハッハ」なんつって、なんだかよく分からないプエルトリカンギャグをかます“変な外国人”だ。だが、試合に入ると真剣で、慣れない日本の投手に対応するためさまざまなチャレンジを繰り返す。ヤクルトのサイドスロー高津臣吾に対応しようと、投球モーションを起こすと同時に打席の投手方向へスッと移動。高畠康真打撃コーチも「ゴメスはただもんじゃない」と舌を巻く対応力で、5月5日のこどもの日にはその高津のシンカーを見事にとらえ、満塁アーチを放ってみせた。

 8月12日の阪神戦から、22日の横浜戦まで10試合連続打点もマーク。最下位に沈むチームの中で、ナゴヤドームを苦にしないパワーも発揮し、来日1年目から135試合で打率.315、31本塁打、81打点、OPS.966と主砲の働き。“ゴメさん”は、やがて“ゴメちゃん”と親しみを込めて呼ばれるようになり、同僚の門倉健に対して唐突に「アゴくら!」なんて絡みナインの爆笑を誘ったりと、ベンチを盛り上げるムードメーカーとしてもチームになくてはならない存在へとなっていく。

ライバル巨人戦でも強さを発揮


99年、ソン・ドンヨル(左)、サムソン・リー(中)らとともにチームを優勝へ導いた


 2年目の98年は26本塁打を放つも、オーバーウエート気味でヒザを故障し二度の戦線離脱。すると、翌99年の春季キャンプでは7キロ減量した91キロの引き締まった身体であらわれ周囲を驚かす。メジャー時代と日本の映像を研究し、打撃フォーム改造にも取り組み、オープン戦から4割を超える打率に6本塁打と爆発。「今年のゴメスはやる」と誰もが予感したように、リーグ新記録の開幕11連勝と最高のスタートを切った星野中日の不動の四番打者として君臨することになる。

 90年代ラストシーズン。11年ぶりの優勝を飾るこの年の中日は個性派たちが顔をそろえ、打線は生え抜きスターの立浪和義山崎武司、苦労人の“恐怖の七番バッター”井上一樹、阪神からトレード移籍の関川浩一、新人の福留孝介らが並び、投手陣ではサウスポー野口茂樹が19勝を挙げMVPに輝いた。外国人では抑えを務めたソン・ドンヨル、長髪が印象的なサムソン・リー、“韓国のイチロー”ことイ・ジョンボムの韓国三銃士が活躍。そして、その中心で打ちまくったのが、打率.297、36本塁打、109打点、OPS.959(打点は当時のチーム外国人最高記録)と文句なしの成績を残し、全135試合中133試合で四番に座ったゴメスである。頼れる助っ人はライバルの巨人戦でも、打率.359に13本塁打と大暴れしてみせた。

惜しまれながら退団


 しかし、翌2000年。ベストナイン2度獲得、4年連続20本塁打以上のスラッガーは、アメリカに住む長男の教育問題、30代中盤に差し掛かった自身のヒザや背中の故障もあり、シーズン終了後に退団を発表。星野監督は「来年も四番を任せようと思っていたので残念だ」と嘆いた。

 日本シリーズのON対決とイチローのメジャー移籍が表紙に踊る激動の『週刊ベースボール』2000年10月30日号には、「ありがとう&お疲れさま 最強の助っ人」特集で横浜のロバート・ローズとゴメスの異例の惜別記事が掲載されている。さすがにこれだけの四番の穴は簡単に埋まらず、翌01年序盤に中日に復帰すると、打率.306、19本塁打と健在ぶりを見せつけ、02年限りで再び現役引退を表明した。

 そのヒゲと明るいキャラクターはちびっ子ファンも多く、名古屋出身の女優・武井咲は部屋にゴメスのグッズを飾るほどのファンとして知られ、2012年秋にはテレビ番組『ひみつの嵐ちゃん!』で46歳になったゴメスと夢の競演を果たしている。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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