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日本シリーズを「ドラマを作る戦場」にした投手たち

 

若林忠志の第1球でドラマが始まった日本シリーズはどんな「シリーズエース」や「エースのつまずき」を生んできたのか──。


1950年、第1回のセパ頂上決戦に先発した若林忠志[左。右は湯浅禎夫監督]


日本シリーズは、そのスタートからエースが第1戦に登場しない戦いになったが、それだけ、監督たちの、シーズンとは違った思惑が交錯する場だったのである。もっとも、超のつくエースたちが登場すれば、そんな思惑など吹っ飛ぶひとり舞台となった。昔話にやや偏ってしまったが(それには理由がある)、日本シリーズを「ドラマを作る戦場」にした投手たちの戦いを振り返ってみた。
文=大内隆雄、写真=BBM

第1球に何を投げるのか1週間どころか1カ月も前から熟考した若林


 日本シリーズは、1950年の第1回から52年の第3回まで「ニッポン・ワールド・シリーズ」という珍妙な正式名称だったことをご存じの方も多いだろう。それほどメジャーのワールド・シリーズが価値あるもの、あこがれの対象となっていたのだが、日本が占領時代だったことも理由のひとつに挙げられる。戦勝国アメリカへのおもねりと言っては、当時の関係者には失礼かもしれないが、野球はアメリカ生まれのスポーツ。占領国への気配りが最優先だったのである。

 さて第1回のシリーズは、セ・リーグの覇者・松竹とパ・リーグを制した毎日の対戦となった。

 第1戦の毎日の先発・若林忠志が、第1球に何を投げるか、開幕1週間前から熟考したというのは、あまりに有名だが、若林は実は1カ月も前に監督の湯浅禎夫に「私に投げさせてくれ」と申し出ていた。第1戦は法大時代に投げ慣れている神宮球場だし、両翼約100メートルは当時の球場では最も広かった。軟投派の自分には合っている。湯浅はOKした。

 さて、若林の考える第1球は、外角をわずかに外れるボールだった。湯浅は、2球目は?2ボールになったら?2-1になったら?と質問をたたみかけたのだが、その都度、若林は明快な答えを返した・・・

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