将来の中継ぎサイドスロー投手として大きな期待を受けていた仁藤拓馬。しかし、過敏性腸症候群という病気に苦しめられながら10年に戦力外を受け引退。球団職員としてスコアラーという職務に就いた。そこで3年間チームのために働き、マネジャーを経て今季から広報として、現場で報道陣と選手たちの間を取り持ち、昼夜駆け回っている。 取材・文=米虫紀子、写真=BBM 「限界まで行けた」選手生活
オリックス広報を務める仁藤拓馬は、チームの練習が始まると、報道陣の対応をしながら、選手のキャッチボールの相手をしたり、守備練習を手伝うなど忙しく動き回る。グラブをはめているときは、心なしか生き生きとして見える。
「宝物、持ってきました」
インタビューが始まると、仁藤はそう言ってポケットから白い革手袋を取り出した。そこにはこう書かれていた。
『仁藤へ 頑張れよ ナイスボール
清原和博』
そのメッセージを見つめながら言う。
「選手として期待に応えることはできませんでしたが、今もこの手袋を励みに頑張っています」
仁藤がプロに入って初めて対戦した打者が清原だった。
仁藤は入団後すぐにヒジの手術(トミー・ジョン手術)を受け、1年目をリハビリに費やした。そして2年目の08年4月26日、初のシート打撃に臨んだ。そのとき、打席に立ったのが、左ヒザの手術から復帰途中の清原だった。
「緊張はしませんでした。それより、もう楽しくて。相手が清原さんということのワクワク感がすごかった。ただインコースはさすがに球が沈みました。手術された左ヒザにとにかく当てないように」
約50球を投げ終えると、清原は「ちょっと来い」と呼んだ。手袋を外してメッセージを書き込むと、プロとしての一歩を踏み出した19歳に手渡した。このときの身震いするような感動を、仁藤は今も鮮明に覚えている。
その後、二軍で登板を重ね、翌年の春季キャンプでは、テクニカルアドバイザーを務めた
野茂英雄の目に止まった。
「仁藤君は面白い投手」
野茂のその言葉で、無名だった仁藤が注目を浴びた。その年、開幕一軍入りすると、4月7日の
西武戦(西武ドーム)でプロ初登板を果たす。1イニング2失点という結果ではあったが、仁藤のプロ人生が本格的に動き出したかに思われた。
しかしそのころすでに仁藤の体には異変が生じていた。過敏性腸症候群と診断された。
「ひと月で約10キロも体重が落ち、体のバランスが分からなくなって、投げ方も迷ってしまった。まるで誰かの体を操縦しているみたいに、全然言うことを聞かなくて、ものすごく歯がゆかったです」
もがいても、もがいても出口が見つからないまま2シーズンが過ぎ、10年10月、戦力外通告を受けた。当時まだ22歳。しかし「未練はなかった」。
「言うことを聞かない体と向き合いながら、2年間やり切った、限界まで行けたという思いがありましたから」
スコアラー、マネジャー、そして広報へ
ただ、チームに携わっていたいという思いは強かった・・・
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