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レジェンドに聞け!

第11回 権藤博「クライマックスシリーズには疑問を感じます」

 

「権藤、権藤、雨、権藤」。短期間ながら、まさにマウンドで投げまくった野球人生だった。その姿はまさにレジェンド。プロ野球の歴史を彩り、その主役ともなった名選手の連続インタビュー第11回。一瞬の輝きを放った権藤博の伝説とは。
取材・構成=大内隆雄、写真=BBM


相手がいてお客さんが入ればテンションも球速もどんどん上がった


今回の権藤氏には、うかがいたいことが山ほどあったので(何しろ、存在そのものがレジェンドの人である)、聞き役のこちらが、しゃべりまくってしまい、大変失礼な取材になってしまったことをまずもっておわびしたい。

実際の話、もう絶対に破ることが不可能な記録である1961年のシーズン429回1/3投球回(2リーグ後最多)をはじめ、新人から2年連続30勝以上(戦後初)、61年のシーズン12完封(当時のセ・リーグ記録)。4試合連続で責任投手、つまり、勝ち負けがつく投手になること2回、3試合連続が1回(61年)。最後の連続責任投手の数字は、勝っても負けても権藤投手の投げぬ日はない、あの「権藤、権藤、雨、権藤」が事実、現実であったことを物語る。こんな人を前にして黙っていられるハズがない。

取材・構成者は、こういうアンビリーバブルな数々の成績は、抜群のスタミナ、強じんな精神力があったから可能になった、という月並みな言い方は権藤氏には失礼だと思った。取材・構成者は「ものすごいスピードボールの持ち主だったから、打者は手も足も出ず、あの記録が達成されたのだ」と単純に考えたい。中日球団発行の『中日ドラゴンズ四十年史』の至るところに「権藤のボールは速かった」という表現があるのは、何よりもまず、権藤氏は、その超スピードボールで周囲を驚かせることでプロ野球に登場したのである。


 あるテレビ番組で、私の投球を撮影したフィルムから、スピードを計算したことがあるんですよ。秒当たりの撮影コマ数というのは決まっていますからね。そういうところから逆算してみると時速149キロという数字が出ました。これがMAXなのか平均球速なのかは、分かりません。ただ言えるのは、私は、ストレートは、常に全力で同じスピードボールを投げていた、これです。投手というのはね、練習では気持ちがハイにはなれんのですよ。多分、私は練習では140キロぐらいしか出ない。それが、相手がいて、お客さんがたくさん入って、となると投手はどんどんハイになる。スピードもどんどん出るワケです。これが投手という仕事の醍醐味じゃないでしょうか。

よく言われる“ブルペンエース”は、権藤氏とは、まったく逆のタイプで、練習では素晴らしいボールを投げるのに試合では、まるでダメという投手を指す。まあ、実際にはこちらのタイプの方が多いのかもしれない。

どんどんハイになっていき、どんどん球が速くなっていくタイプの頂点、極致にあったのが、61年の権藤氏だった。筆者は、そのスピードは軽く150キロを超えていたと思う。しかも、その制球は自由自在。それでなければ、あんな数字は残せるハズがない。


そのスクリューは外はスライド、真ん中はストン、内は食い込む“魔球”


 私には、ストレートとタテのカーブで、それに、案外知られていないけど、スクリューがあったんです・・・

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“レジェンド”たちに聞け!

“レジェンド”たちに聞け!

プロ野球80年の歴史を彩り、その主役ともなった名選手たちの連続インタビュー。

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