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――留学に関しては、球団的にはアメリカでもまれてこい、ということだったと思うんですが、山本選手的には少し腐っていたそうですね。

山本 はい。僕は5年目だったので、なんでいまさらというような思いがあったんですね。今思えば全然今さらじゃないんですけど。もう今年で最後のつもりでやっているときに、なんで違うところに行ってやらなければいけないんだと。ああ、今年はもう日本では一軍で投げられないんだと。

 そのときは、とにかく一軍で投げたいというのが夢だったので、今年はもう夢を取られたという気持ちでしたから。帰るのは8か月後になるのかと。「ここにいて何になるんだろう」、「何やってんだろう、俺」と思って、非常にふてくされていたんですよね。それが1ヶ月ぐらい続きましたね。

――その気持ちを切り替えてくれたのが、当時、ドジャースのピーター・オマリー会長の補佐役として、日米野球の架け橋として活躍されていたアイク生原さんだった。

山本 そうです。アイクさんがいなければ、今の僕はいないでしょうね。あの年に辞めた後、「プロ野球って凄いところだったな」って、想い出話をみんなにしていたんじゃないかな。とてもじゃないけど、あの世界はってね。

――アイクさんとの出会いは大きな財産でしたか。

山本 僕のプロ初勝利までに至る道では、アイクさんとアメリカ留学なしではとっても語れませんので。そのなかでも、それまで5年間ファームにいながら向上心だけは失っていなかったので、その気持ちがなかったらアメリカに行っても何も得られなかったしょうし。

 アイクさんも、きっと「こいつ、頑張ってるな」と思っていろいろと手を貸してくれたんでしょうから。僕がふてくされていたときに、アイクさんも「何やってんだ、こいつ」と思ってたでしょうが、でも見放されずにかわいがっていただいて、いろんなアドバイスをいただいた。またそれを実際試せる機会があったっていうことが大きいですね。

――アイクさんのアドバイスもあり、このときにスクリューボールをものにされたことが後の昌選手に大きな転機となります。

山本 スクリューボール自体は、アイクさんから授かったわけではないんですけど、「こういうボールを覚えなければだめだ」という話はいつもしてくれて、そのとっかかりをつけてくれたんですよね。あれは、たまたまメキシコ人の内野手が投げていたのを僕が「教えて」って言って始めたのが最初なんです。

 日本では、ファームでも試合に出る機会がなかなか回ってこなかったんですけど、アメリカでは少人数で150試合を6ヵ月、ほぼ毎日ですよね。そういう環境があったので。フロリダ・ステートリーグというところは、ほとんどナイトゲームだったんです。ナイターだとキャッチャーが見えなかったりしたんですよ。全く風景が違ってね。そういうのにも慣れましたね。そうやって、場馴れさせてくれた環境も、僕には大きかったんです。僕にとって必要なものが全部揃っていたという環境でしたね。



――アイクさんの教えで覚えていることは?

山本 「前で放せ」とか、「上から投げろ」、「ストライクを投げろ」「ストライクを先行させろ」とか。そういうことを、口すっぱく言われましたね。基本的なことなんですけど、意外とみんなできていないんです。頭ではわかっているんですけど。その意識が高くなったときに、勝てるようになりましたね。

 アイクさんは92年に亡くなりましたけど、僕のその後の活躍を見てほしかったですよね。僕が最多勝を取ったことも知らないままだったので。本当に残念でした。のちに僕が名球会に入ったなんて言ったら、アイクさん引っくり返っちゃうんじゃないですか。

――最初の最多勝は93年でした。

山本 アイクさんが亡くなった次の年でした。でもあの年は僕にアイクさんが乗り移ったような気がしましたね。いつもアイクさんが球場に来ているような気がして投げていましたから。アイクさんの後押しがあって、最多勝が取れたんだなと思っています。

――今でも、アイクさんと二人三脚でやっている気持ちがある。

山本 はい。僕の自宅の玄関にはアイクさんの写真が飾ってあるんですよ。必ず先発の日は手を合わせるんですけど。今でも本当に感謝しています。僕はいろんな方に恵まれてきて、いろんな人に助けてもらって、ピンチのときにいろんな人が現れてくれる。本当に幸せな野球人生だと思います。留学に行かせてくれた星野監督もそうですし、留学という制度自体がなければ、とっくに消えているでしょうから。

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