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キセキの魔球

【キセキの魔球24】和製ナックルボール史上最高レベルで、砂漠の地アリゾナへ。運命のメジャー球団単独トライアウト

 

2017年6月19日。大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語――。

もう一度アメリカで、大リーグのトライアウト


2016年11月、大家に結着のときが迫っていた(写真はエクスポズ時代)


 2016年11月、アメリカ西部アリゾナ州。荒野の砂漠地帯に開けた大都市フェニックス郊外の町、ピオリア。広大なスポーツ施設の敷地には12面の野球場と1万人収容のメーン・スタジアムがある。春には春季キャンプの会場として、シアトルとサンディエゴが共有し、日本ハムファイターズもここ数年キャンプを開いている。秋になると、アリゾナ秋季リーグの舞台となり、大リーグの各チームの若手有望株が10月からの6週間、実力を競い合う。

 アリゾナ秋季リーグとは、大リーグの30チームが球団の垣根を越え、協力体制のもとで行われる育成システムだ。各メジャー球団から7人ずつ選手が送り込まれ、5球団の合計35人で一つのチームが作られる。つまりリーグにはそれが6チームある。ピオリア・スポーツ施設を本拠地とするピオリア・ハベリーナスは、ボルティモア、タンパベイ、シアトル、サンディエゴ、シンシナティ、この5球団による混合チームだった。

 11月2日、午前9時。大家友和は、試合を控えたそのピオリアのメーン・スタジアムにやって来た。大リーグ関係者の前でナックルボールを投げ込むためだ。この日のトライアウトは大家ひとりのために組まれたものだった。観客が入場する前の午前10時半、スタジアムのマウンドに立ち、スカウトを前にテストが行われる。ナックルボーラーとして3年ぶりの大リーグのトライアウトだ。

 大家友和にとってこれが最後の挑戦、結着のときが迫っていた。

 そのひと月ほど前、独立リーグ福島ホープスでのシーズンを終え、郡山から京都に戻った大家は、彼を支える仲間とその後の進路について話し合いを持っている。10年来の付き合いになるエージェントと、投げ始めからずっとナックルを捕球してきた野球部の後輩。来年も投げ続けるかどうかという意思確認というよりは、大切なのは大家の操る魔球の行く末だった。もうすぐ41歳になろうとする選手には、現役にしがみつこうとする欲などない。もし投げ続けるべきだと思えるならば、それは彼の魔球がそうさせるのだ。実際、この話し合いの時点で彼はそれまでの4年間で最も高精度のナックルを投げている。福島での最後のブルペン・セッションで投げ込んだナックルは、これで投げ納め、とあきらめのつくような中途半端な球ではなかった。

 ずいぶん昔からナックルボールにはさまざまな形容が付けられてきた。浮遊物、アイスクリームボール、気まぐれ、不気味、あるいは、ひらひらと舞う“白い蝶”などなど。福島ホープスで大家のナックルを捕球していたブルペンキャッチャーは、彼の球を“暴力的”と表現している。それはナックルボーラーにとって最高の褒め言葉だ。

「空気にぶつかって、ゴン、ゴンっていうような感じです」

 大家の球は、普通に飛んでいた物体を誰かがパーンっと叩いたり、あるいは目に見えない壁にぶつかって軌道を急激に変えたように突然、変化する。まさに “白い蝶”に育っているのだ。

 このレベルになると、投げ手からの視覚だけではナックルの質を確かめるのが難しくなる。実戦で打者に投げて初めて、その反応、打球の行方、キャッチャーの対応などからボールの揺れ方の良し悪しを判断することができるのだ。球の質の向上とともに、もっと高いレベルの打者に投げ込まなければ真価を問えない。

 独立リーグは観客がたったの数百人しか集まらない試合もあった。そんな中でも一球入魂で投げ込まれたナックルボールに、打者は今まで一度も見たことのない軌道に驚愕し、キャッチャーは日に日に育っていく魔球に興奮していた。そこに示されたもう一つの野球のカタチ。もし大家が投げることをやめてしまえば、ナックルの成長はそこで止まる。日本史上最高レベルまで育った魔球の小さな歴史が人知れず幕を閉じることになるのだ。

「日本では真のナックルボーラーは存在しません。大家さんしかいないんです。彼はほんとうに真剣に取り組んでいる。まだまだ伸びしろがあります。進化しています。希望のない球ではないのです」

 エージェントにそこまで言わせたのは、彼が大家の生命力のたくましさを信じていたからだ。大家はいろんな修羅場をくぐり抜けてきた。だったら最後に勝負するべきではないかと、エージェントも思うのだ。もちろんそこには覚悟もあった。

「だらだらと現役を続けてほしくはないんです。死に切れないときは介錯するのが私の役目だと思っています」

 今こそ、結着をつけるとき。もう一度アメリカで、大リーグのトライアウトを受けるのだ。

オリオールズがトライアウトを主導


 11月2日、アリゾナ州ピオリアの球場。午前9時の気温は摂氏18度、湿度32パーセント、北東の風0.9メートル。トライアウト時刻になると気温の上昇とともにさらに湿気は奪われ、湿度20パーセントの予報が出ていた。ちなみにこの時期の京都の平均湿度は68パーセント。ナックルボールにとって湿気は味方だ。そのほうがよくボールが変化する。反対に乾燥は非常に不利だ。ましてや砂漠の地は分が悪い。アリゾナに入った直後、大家はボールが滑りやすく、それまで日本の湿気に少々頼りすぎていたかなあと言っている。アジャストするため、ボールを多少がっつりと握り、それに合わせてリリースも微調整した。ナックルボーラーにとっての要である爪の研ぎ具合も、現地に入って最終調整をしている。

 午前9時50分。スタジアムの外野寄りのフィールドで大家がウォームアップを開始した。まずはランニング、そしてキャッチボールを始める。フィールドには試合を控えた選手の姿もあった。少しずつスタンドに関係者らしき者たちの数が増えていく。しかし、この中で実際に大家のトライアウトを目的に集まった者がどれだけいるかは把握できない。

 ここを拠点にしているピオリア・ハベリーナスのピッチングコーチが大家に声をかけた。

「何球投げたいか?」

 本番前にブルペンで何球ぐらい投げ込みたいかを聞いているのだ。

「40〜50球ぐらい?」と大家が答える。

「オーケー、40で」とコーチ。

 キャッチボールから遠投へと移り、大家はブルペンへと移動する。するとフィールドにいた多くの関係者が小さな波となり、ずらずらとブルペンへ移動を始めた。マウンドでの投球を待たず、トライアウトはブルペンでの投球練習から始まるようだ。太陽のまわり具合で外野スタンドの影が大家の投げ込むブルペンのほとんどを覆い尽くした。ブルペンはその影にすっぽりとかぶさり、真っ暗に見える。そんな状況下でも非公式にテストは始まっていた。

 このトライアウトを主導したのはボルティモア・オリオールズである。大家の球を受けるのは、オリオールズ傘下のマイナーでプレーする25歳のオースティン・ウィン捕手。

 大家が約40球を投げ終わるころ、関係者はポツポツとブルペンを離れ、ホームプレートのほうへとゆっくりと移動を始めた。

「悪くないな」と、関係者の一人がつぶやく。それを知らされた大家は、ブルペンから移動しながら、少し驚いたようにつぶやいた。

「え、こんなんでいいの?」

 本番はこれからだ。

ナックルは会心の出来


 バッティングケージには、ピオリア・ハベリーナスでプレーする4人のボルティモアの打者が控えていた。トライアウトは実戦方式で行われる。ケージの周りに関係者が集まって来る。ボルティモア、タンパベイ、シアトル、サンディエゴ、カンサスシティーの5球団から合わせて15人以上のスカウトが結集したと思われる。ホームプレートの真裏でスピードガンを構えるスカウトもいた。マウンドの大家は黒いTシャツにグレーのパンツ。Tシャツの左胸には漢字一文字が刻まれていた。「志」――。

 その日の朝、大家は時差ボケで夜中に目を覚ました。最初は翌朝のために何とかもう少し睡眠を取らなければと頑張ってみた。だが彼はそれをやめた。

――寝不足でも、時差ボケでも関係ないやん。俺のボールがどうかだ。その場に集中できるかどうかだ。

 そして大家は、ほとんど緊張感を覚えずに、大勢のスカウトの前で淡々とナックルボールを投げ込んだ。

 一人目の右バッターへの初球、ストライクゾーンを外れたものの、赤いボールの縫い目がくっきりと刻まれていた。ほぼ無回転。打者4人に対して一巡目はボール球が先行する場面もあったが、二巡目からはストレートが先行し、極端に球数を抑えて仕留めていく。左打者に対してはいきなり横投げ戦法のナックルによる奇襲作戦で追い込む。打者にそのまま向かって突き進む魔球に、打者がのけぞる場面も。球速も始まりの63マイルから、徐々に出力を上げていき、中盤からは65マイルが続き、70マイル近くを記録する球もあった。二巡目を終え、キャッチャーのオースティンが叫ぶ。

「水、水を持って来てあげて」

 大家に一息つかせるため、ウォーターボトルを運ばせる。「オーケー、一旦休憩」

 休憩後はますます会心だった。3球空振り三振に仕留め、見せ場を作る。

「あと1人!」と、誰かが叫んだ。最後は三塁線のゴロで終わった。大家が投げ込んだナックルボールは60球。

「握り方を見せてくれ」と、スカウトの1人が大家に聞いた。

 集まった中で最も貫禄だったのは、大柄の年配、オリオールズの特別スカウトのロン・シューラーだ。元シカゴ・ホワイトソックスのGMである。

「もう少しスピードが欲しかったけれど、ストライクゾーンには納めていたし、なかなかの変化もしていたし、良かったと思うよ」

 トライアウトの直後、スカウトの一人は大家のエージェントに、どこを目標に据えているかと尋ねている。

「2Aか3Aで勝負をさせたい。イニングを投げさせる環境が彼には必要だ。速いナックルで三振を取ることが目標です」

 そしてエージェントは付け加えた。

「(春季)キャンプ中にクビにしないでもらいたい」

 スカウトは、今日の結果を早速上層部に報告しよう、48時間以内には何らかの連絡を入れるよ、と言った。最も熱心だったのは、ボルティモアとタンパベイの2チームだった。

師走を迎え、動き出した事態


オリオールズのダン・デュケットGM


 トライアウトを終えた直後の大家。

「心残りはもう少し腕が振れていたら……」

 でもその表情はすがすがしかった。

「今日のトライアウトは、成果を試すことができて良かったですけれど、ここからどこに(道が)つながっているのかはさっぱり分からない。一つ言えることは、野球選手になったとき、ボロボロになるまでやれたらと思っていたけれど、本当にボロボロになるまでやってきたので、トコトンやりきりましたと言えます。もしも契約が取れることがあればうれしいですし、でも、始まりということは終わりが来る。いつしか終わる。終わりはすぐそこですから」

 アリゾナ滞在中にスカウトが約束した48時間が過ぎたが、何の連絡も入らなかった。

 京都に帰って1カ月が経った。師走を迎え、事態は動き出す。

 12月16日(現地12月15日)、ボルティモア・オリオールズは大家友和とマイナー契約をすると発表した。

 オリオールズのGMは、元ボストン・レッドソックGMのダン・デュケット。1998年11月、22歳の無名の選手だった大家友和をレッドソックスに引き入れたのがこの人である。2001年7月に大家をモントリオール・エクスポズにトレードに出したのも彼だ。その翌年、2002年に新オーナー就任のタイミングでチームを追われ、2012年、10年ぶりにオリオールズの編成トップとしてMLBの要職に返り咲いた。デュケットのレッドソックス時代にはティム・ウェイクフィールドがいる。オリオールズでGM復帰してからも2人のナックルボーラーをマイナーで育てようとした経緯がある。果たしてデュケットはナックルボーラーの味方なのか? 41歳になる大家友和に手を差し伸べたのはなぜなのか?

 こうして大家友和の最終章は、メジャー・リーガーとしてのきっかけを作った人物と再び関わり合い、期待と不安が交錯する中で、オリオールズのキャンプ地フロリダでクライマックスを迎えるのである。
 
<次回12月13日公開予定>

文=山森恵子
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