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追悼・星野仙一

追悼企画05/星野仙一、野球に恋した男「1年目、コメントが面白いと評判に」

 

 星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。
 いま編集部では、1月26日発売予定で星野さんの追悼号を制作している。その中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略)

デビュー戦は散々


新人時代の背番号は22だった


中日のルーキーのコメントが面白い」

 というのが1969年の記者たちの評判だった。もちろん、星野仙一のことである。

 たとえば、

「きょうは調子がよかったね。1球1球くさいところに入るが、あれは主審の右手が上がるかどうかの問題で、僕の制球力のせいではありません。もちろん、僕のは全部ストライクですよ」

 当時の記事を見ると、「それでも生意気とあまり言われなかったのは、人徳もあるだろう」とあった。
 ただ、シーズン終盤になると、時にムキになって記者たちに主張することがあったという。

「最近、どの新聞を見ても僕の新人王なんか問題にしてない。おかしいじゃないですか。勝ち星の8勝に12のセーブポイントをつけたら20勝したのと同じです。対象にしてくれてもいいじゃないか」

 1年目の星野の成績は8勝9敗、防御率3.11。起用は先発が16試合(6完投)、リリーフが33試合。まさにフル回転のシーズンだった。当時はまだセーブ制度が導入されておらず、「セーブポイント」については自身で計算したのだろう。

 新人王は大学時代からのライバル、22本塁打の阪神田淵幸一だが、打率は.226。おそらく星野が10勝していたら分からなかったが、最後は打球を右手に受けて離脱し、勝ち星を伸ばすことはできなかった。

 星野がタイトルにこだわったのは、そのオフに扶沙子さんとの結婚を控えていたからかもしれない。前回紹介した東映・金田留広との対談の中では「ぼくはたった一人のガールフレンドしかいないんだ。あまり多角経営は得意じゃないんでね」と照れながら話していた個所もある。

 結婚後、「1970年3月23日号」の新人・谷沢健一との対談でも触れているが、

「別に結婚したからどうのこうのはないよ。俺がいい成績をあげれば女房も喜ぶし、俺の給料も上がる。だからすべては成績で決まる。そのため一層練習に励む。結婚しても結局同じだよ」

 浮ついたところはまったくなく、むしろ新しい家族を養う責任感が滲み出る。

 星野にとってルーキーイヤー最大の屈辱は1勝3敗、防御率5.26の巨人戦だろう。ONに対しても長嶋茂雄に25打数8安打、4本塁打、打率.320、王貞治に20打数8安打、2本塁打、打率.400と打たれまくった。谷沢との対談でも、打倒巨人の思いが強くなっているのが分かるが、これを読んだだけでは、まるで星野が巨人戦に強かったように思えてくる。たとえば、こんな個所がある。

「人気ナンバーワンチームだし、お客さんは入っている。こんなところで巨人を牛耳る気持ちのよさは格別だね。まあ星の上からは巨人に勝つのも他球団からあげるのも1勝は1勝だけれども、優勝チームからの勝ち星というのは、その後の試合にも影響してくるものだ」

 強がりなのか、性格なのか。

 ただ、勝負と意気込んだ2年目の70年は、開幕から打たれまくってプロ初の二軍落ちも経験。それでも「ファームでみっちりやり直しますよ。だけど、このまま二軍にズルズル落ちているなら死んだほうがまし!」と目をギラギラさせ、言い放った。

<次回へ続く>

写真=BBM
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