今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 契約更改で嘆いた野村克也
今回は『1961年12月25日増大号』。定価は10円上がって40円だ。前回までしばらくトレード話が続いたが、今回の本文巻頭は『契約更改ごねるスター選手に同情の声』。いわゆる“銭闘”だ。
南海では、本塁打王とMVPの
野村克也がもめていた。月給は40万円ほどだったらしいが、提示は5万円上がって45万円。野村は悪くても50万円と思っていたので「話にならない」と保留(文中はすべて月給表記だった。年俸では480万円から540万円に。野村の希望は600万円となるか)。実績で劣る
中日の
森徹が65万円と言われていたから、かなり低い。
ケチと言われた南海の給料が全体に低めだったことに加え、野村の場合、テスト生で月給7000円からスタートしたこともあったようだ。つまりベースが低すぎたのだ。
「海のものとも山のものとも分からぬ新人でも大学出となると、すぐ20万円からスタートする。僕は7000円から出発し、これまでみじめな思いをしてきた。だいぶ会社を儲けさせたと思っているのだが……」
と野村は嘆く。3000万円、4000万円とも言われた当時の新人獲得の際の契約金高騰が、選手たちをかなりイライラさせていたのは確かだった。それにしても、もし今と比べ10分の1の物価だったとしたら、3000万円、4000万円は3億、4億。MVPで600万の10倍、年俸6000万が希望の野村が怒って当然だ。ほか4分で席を立ったという東映・
張本勲の話もあった。
この号は全体として補強関係の記事が多く、『1962年プロ入りルーキー評判記』では12球団の新人たちが紹介されている。このうち巨人は
城之内邦雄、
宮田征典、
柴田勲らが加わった。法政二高で、甲子園優勝投手でもある柴田については、
「柴田は野球のボールから生まれたような人で、非常に勘のいい選手である。バッティングは右へでも左へでも巧みに打ちこなすし、また脚力もすばらしい。投手よりむしろ打力を生かしたいような選手。投手としても外角低めいっぱいを突く速球、スライダーに威力があり、打者の呼吸を読み取ることもうまい。それに気性も激しい。スピードもあるし、まだまだ球威は出てくるだろう」
佐々木信也の連載対談では、選手兼任で西鉄の助監督となった
豊田泰光が登場する。少しやり取りを抜粋しよう。
豊田 ただのコーチっていうんだったら、ただアドバイスするくらいですむからいいけどね。助監督なんて言うから困るよ。
佐々木 なにを監督するのか。
豊田 自分はまだ監督される立場なのにさ(笑)。だけどまだ、あと5年は伸び伸びやりたいね。プレー一本でやりたいんだ。またどうせ来年くらいは外されるだろうけど(笑)。
実際外れ、さらにトレードになった。
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では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM