客席まばらな西宮での達成に「俺らしい」と大島
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は8月21日だ。
今回は本誌で連載コラム『負くっか魂』を執筆されている
大島康徳氏の2000安打達成日を紹介する。
すでに本人が当時を振り返った回は終わっているで、ここでは達成時の本誌の記事を多少手を入れつつ再録する。
1990年8月21日の話だ。多少、時代を感じるタッチではある。
大島にとって、これほど一塁ベースまでの27.43メートルが長く感じられたことはなかっただろう。
打った瞬間、誰の目にも疑いのなかった鮮やかなヒット。まるで高峰に登り詰めた登山者のように一塁ベースを踏みしめて立つ大島は、夢見心地で「2000本安打達成」のアナウンスを聞いていた。
それにしても、あと2本が遠かった。
「記録なんか意識してないよ」という大島の言葉とは裏腹に、15日にあと2本として以来、大島のバットはすっかり快音を失っていた。
21日、対
オリックス戦(西宮)の第1打席に右飛に倒れ、11打席ノーヒット。
近藤貞雄監督の気配りで一番に座っている。「もう疲れちゃったよ」とばかり、ため息をついた矢先の第2打席、ようやく1999本目が飛び出した。
そして──。
大島にとって忘れられない第4打席、1−1から
佐藤義則の投じたストレートはきれいにセンター前に弾き返された。
プロ入り22年目、39歳10カ月。史上最年長の、そして2290試合目と史上最長の名球会入りの瞬間だった。
「名球会はそうそうたるメンバーの集まり。僕なんかが入っていいのかなあ。複雑な心境だよ」
偉業を達成した男の地味なつぶやき。
「僕はただ一生懸命やってきただけだから……」
無名校、大分・中津工高から
中日にドラフト3位で入団。一軍デビューは3年目だった。
2度の優勝、本塁打王獲得と華やかな勲章もあるが、その陰に80年交通事故であわや右目失明の危機もあった。
87年オフ、
日本ハムへのトレード通告。一時は「19年もやったし、野球をやめるか」とも思った。それを踏みとどまらせたのが、生まれたばかりの長男の笑顔だった。
「子どもがお父さんの仕事は野球だって分かるまで頑張ってみようか」
枯れかけていた木から緑の芽が吹き返した。
2000本も単なる通過点だという。
「もともと目標ってわけじゃない。2000本を打つためにあと現役何年とか計算もしてなかったしな」
名球会に入った途端、目標を終え、なえてしまう選手を何人も見てきた。
だが、大島は違う。
「下の子がまだ1つだろ。この子に俺の仕事を見せるまではやめられないよ」
遅咲きの男はタイトルで花開き、名球会入りで実を結んだ。
そして、その実が新しい種になる。
39歳、大島のあくなき現役への挑戦。「背番号11」は、まだ健在だ。
写真=BBM