日米通算25年目の今季、ついにユニフォームを脱ぐ決断をした西武の松井稼頭央。抜群の身体能力を持ち、2002年にトリプルスリーを達成するなど、派手なプレーに目を奪われがちだが、非常に泥臭い選手でもあった。
PL学園高時代は投手だった松井は1994年に西武入団後、遊撃手に転向した。いわばすべてがゼロからのスタートだった。そこで繰り返したのが基本の反復練習。ノック一つとっても何万球、何十万球と受けていく中で技術を身に付けていった。その根底にあったのは「自分は下手だ」という意識。だから、朝から晩まで野球漬けの日々に没頭することができた。
プロに入ってスイッチヒッターにも挑戦し、左打ちに取り組んだ。本格的に転向したのはプロ3年目。前年、右打席で右投手をまったく打てなかったからだったが、スイッチに失敗したらプロで生き残れないと危機感を抱き必死になった。慣れない左打席。真ん中から1個、内側のボールが体に当たると思い、「ワッ」と声が出るほどだった。右打席と左打席での景色の違いに戸惑ったが、そこで弱気にならずに「絶対に逃げたらアカン」と詰まろうが何しようが、とにかく踏み込んで打つようになった。
スイッチの左だからといって、当てるだけのバッティングをするつもりはなかった。しっかりとバットを振れる、本当の左バッターになりたいと考えた。当時の
須藤豊ヘッドコーチに「右と左では人格を変えろ」と言われ、最初は振るだけで精いっぱいだった。最初はなかなか結果も出なかったが、
東尾修監督が我慢強く試合で起用してくれた。期待に応えるために「何とかせな」と毎日、早出特打を重ねた。スイッチに取り組んで2、3年目くらいからステップの幅やヘッドの入り方など形を考えられるようになり、それが02年の36本塁打につながった。
松井のスイッチに対するこだわりで忘れられない言葉もある。1999年のことだが「例えば左の調子が悪いとき、右投手でも右打席で立ちたいと思うことは?」と聞いたときだ。松井は次のように答えた。
「スイッチをやりたてのころは、スコアリングポジションにランナーがいたら右で立っていましたけど、今、そういう気持ちはないです。でも、首脳陣は言いますね。僕はダイエーの永井(智浩)との対戦成績が、15打数0安打なんです。だから監督から『ランナーが三塁にいたら、お前、右だからな』と言われるんですけど……」
「嫌だ、と言う」
「首を傾げるんですけどね。土井(正博)コーチにも『右でいくか、左でいくか、お前が決めていいぞ』と言われているんですけど、もし右でいったら、今まで培ってきた左が台無しじゃないですか」
野球に対して、本当に、いつも真剣だった。
文=小林光男 写真=BBM