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高校野球リポート

清宮に「宝物」を与えた前高校日本代表監督・小枝守氏

 

逡巡の末、主将に任命


小枝守氏は高校日本代表監督として16年のU-18アジア選手権(台湾)で優勝、17年のU-18W杯(カナダ、写真)では銅メダル獲得へ導いた


 日本ハム清宮幸太郎は2年前(早実3年)、急造チームを束ねた約2週間を「宝物」と表現した。

 2017年9月。侍ジャパン高校日本代表を率いた小枝守監督は、清宮に主将を任せることに実は否定的だった。高校通算111本塁打。プレーヤーとしての能力は申し分ない。しかし、春先の視察段階から、リーダーとして牽引できるか疑問符がぬぐえなかったという。実際、ほかの選手をキャプテンに指名する構想を持っていたが、最終的に周囲からの意見もあり、清宮に落ち着いた背景がある。

 小枝監督は母校・日大三高で1979年夏に甲子園出場へ導いた後、81年からは当時は無名だった拓大紅陵高(千葉)をゼロから指導。春夏を通じて甲子園9回出場(1992年夏は準優勝)と、強豪校に育て上げた。

 ベテラン指揮官、生徒を見る眼力は確かである。代表チームとは全国から選ばれた各校の主力選手が集まり当然、個性が強い。しかし、現実として結成から短期間で一つのチームに仕上げていかないといけない。

 小枝監督の不安は的中した。カナダで行われたU-18W杯。国際大会は高校3年間、使い慣れた金属バットではなく、木製を使用する。清宮のバットからなかなか快音が聞かれなかった。結果は仕方ない。小枝監督は凡退後の緩慢な動きが許せなかった。主将の行動が、チームの士気を左右するのは言うまでもない。

 大会が終われば解散。このチームで戦うことは、二度とない。現場の指導者としては穏便に済ませ、そのまま放置する選択肢もあっただろうが、小枝監督は我慢できなかった。

 しかし、そこはクレバーな清宮。自ら小枝監督に歩み寄って、ホテルの自室にアポなし訪問。寄せ集めのチームを主将として動かす難しさを、悩みとして打ち明けたのである。2人はヒザを突き合わせて、話し合いの場を持った。小枝監督が強調したのはこの1点だ。

「チームの勝利を最優先。個人成績は二の次。個人の感情を表情に出すな」

 清宮も高校生。言われて初めて気づくこともある。吸収能力が高く、すぐに行動に移した。地元・カナダとの3位決定戦。このチームで戦う最後のゲームを前にした練習で、清宮は率先して準備を進めていた。その光景をベンチで見届ける小枝監督の穏やかな笑顔を、忘れることができない。

野球を通じて多くの「人」を作った指揮官


 銅メダルを獲得した3位決定戦後、小枝監督は選手全員に1分間スピーチをさせた。すると、清宮は「主将として、動けなかった」と反省を口にしたという。この言葉を受け、小枝監督はドラフト前に、こう言及している。

「収穫多き2週間だったと思います。彼はおっとりとした性格。プロはすべて、自分で律していかないといけない世界で、自覚が求められる。『自分で意識して行動できるか』。私の言葉が、記憶の片隅にあればありがたい」

 2年前の「反省」を「宝物」として受け止められるようになった清宮。小枝氏の言葉が心に届いたからこその発言だったと思われる。

 これは、一つのエピソードに過ぎない。語り尽くすことができないほど、小枝氏は野球を通じて、多くの「人」を作ったのである。

 小枝氏は1月21日、67歳の若さで亡くなった。常に生徒に寄り添った監督であり、教育者だった。任期2年の高校日本代表監督を退任後も、日本高野連の役員を歴任。高校野球のために、もっとたくさんの仕事をしてほしかった。残念の一言である。

文=岡本朋祐 写真=早浪章弘
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