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第46回 パーフェクトな投手・ダルビッシュ vs 圧倒された他球団|「対決」で振り返るプロ野球史

 

球界再編騒動の副産物だった交流試合。ダルビッシュがもしいなければ……


NPB在籍7シーズンで93勝、防御率1.99をマークしたダルビッシュ


 第45回では球界再編について書いたが、書き忘れたことがあった。04年の近鉄とオリックスの統合は、パ・リーグが「このままでは危ない」と、存亡の秋(とき)とばかり切り札を出した、ということなのだが、それ以前に小出しに、目立たないカードを切っていた。03年1月16日、パ・リーグのオーナー懇談会は、04年からのプレーオフ導入で6球団が一致した。これを受けて、2月18日、パ・リーグ理事会は、04年からプレーオフを導入することを正式に決定した。

 6球団しかないのに、上位3つの球団でプレーオフを行い優勝チームを決めるという、前代未聞のやり方に、セ・リーグは「信じられないことをやる」とあきれ顔。勝手にやれば、と冷ややかな態度だった。筆者もあきれ果て、空いた口がふさがらないとはこのことだった。

 しかし、04年、パ・リーグは、この新制度で盛り上がってしまった。ペナントレースで負け越した3位チームが優勝できるという理不尽な制度なのに、選手もファンも、この新システムに熱中してしまったのである。ペナントレースの最高勝率チームはダイエー(.597)だったのだが、2位の西武(.561)が、プレーオフの第1、第2ステージを勝ち抜き、パ・リーグの覇者となってしまったのだ。西武はまず第1ステージ(西武ドーム)で3位の日本ハムを2勝1敗で下し(観客は3試合で11万3000人!)、第2ステージ(福岡ドーム)では、ダイエーを3勝2敗で破り(観客は5試合で23万6000人!!)優勝となった。

 観客動員数が実数発表でなかった当時だから、にわかには信じがたい数字だが、8試合とも球場が満員だったことは確か。とにかく、プレーオフ出場チームの地元は、異様なほどの盛り上がりを見せたのだった。この年のパ・リーグの観客動員数は、1068万4000人。史上最多を記録した。セ・リーグはこれにショックを受け、07年にプレーオフを導入してしまったのはご承知のとおり。

 しかし、ここで筆者は、次のことを付け加えなければならない。この年の暮れ、日本ハムにダルビッシュ有が入団しなければ、プレーオフその他の盛り上がりが、持続しただろうか、これである。日本ハムは、この04年からプレーオフに06、07、08、09、11、12、14、15、16年と毎年のように出場する“常連”となるのだが(6分の3の確率で常連もないものだが)、ダルビッシュは、2年目の06年からプレーオフ、日本シリーズの主役となる。07、09年はペナントレースのMVP。ファンはペナントレース、プレーオフ、そして、日本シリーズでダルビッシュの天才的なピッチングを心ゆくまで味わうことができたのである。06年の中日とのシリーズでは日本一。Vを決めた第5戦の勝利投手。

素晴しい勝率と防御率、被本塁打の少なさ、パーフェクトな投手だった


 ダルビッシュは、7シーズンで93勝という成績を残してアメリカ(レンジャーズ)へ渡ったが、敗戦はわずか38。勝率.710という高さである。あの田中将大(楽天-ヤンキース)も、7シーズンで99勝35敗、勝率.739という、すごい数字を残しているが、これは、13年の24勝0敗が効いてのものだ。防御率はダルビッシュが1.99で、田中が2.30。ダルビッシュは1点台の防御率が5回(連続)。まあ、とにかく点を取られないという点では、プロ野球史上でもトップクラスの投手だった。

 ダルビッシュは、初めはメジャーにそう興味はなさそうだったが、WBCなどを経験して「日本の投手の力を見せつけないと」と、心境が変化、12年からのシーズンで、まさに日本の投手の実力をアメリカで見せつけてくれた。

 時代が先に進み過ぎてしまったが、ダルビッシュがただ者ではないことをファンに知らせたのは、早くもプロ初登板の試合でだった。05年6月15日の広島戦[札幌ドーム]。球界再編騒動の副産物で、この年からセ、パの交流試合が始まったのだが(04年9月29日のオーナー会議で承認)、初登板が他リーグ相手というのも面白いのだが、広島の打者は面白いどころではなかった。8回までダルビッシュにゼロに抑えられ、初登板初完封の快挙か、という最高のピッチング。結局、9回に2本塁打を浴びて降板、完封も完投もならなかったのだが初勝利(8対2)。とにかく、あらゆるボールを駆使して打者を手玉に取る手際はもうプロの一流のそれ。

 東北高1年時に、すでに持ち球が11種類あったというのだから恐れ入る。のちにダルビッシュは、この初勝利を「一番うれしい勝利でもあり、一番悔しい勝利でもある」と振り返っているが、完封、完投できなかった悔しさもあるだろうが、「もっとボールを速くしなければダメだ」の思いがあったのだろう。それからは、肉体強化に励み、150キロ台がコンスタントに出せるパワーを身につけた。

 パワーがつけば、これはもう鬼に金棒である。速球投手は、えてして力に頼る結果、手痛い一発を浴びるものだが、ダルビッシュにはこのポカがない。7シーズンで被本塁打を1ケタに抑えたのが5回。日本最後の11年などはリーグ最多の232回を投げながら、被本塁打わずかに5。約46イニングで1本。まあ、ベンチは、被本塁打はあり得ないと安心していい投手だった。

 また、先に進み過ぎたが、繰り返すが、パ・リーグは、プレーオフと、新参入の楽天の経営者にヤル気があったことで、荒波をかわすことができたのだが、パ・リーグを救ったのはダルビッシュなのである。

文=大内隆雄

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