左から繰り出す伸びのある真っすぐとキレ味鋭いスライダーで、かつては日本代表のユニフォームを着てマウンドに立ったこともある。血行障害の手術から復帰後、抑えを任されることもあったが、ここ数年は期待された結果は残せず、不完全燃焼に終わっている。それでもやるべきことは変わらない。チームのために腕を振るだけだ。 文=土屋善文(中日スポーツ) 写真=桜井ひとし、松村真行、小山真司、BBM 
血行障害の手術を乗り越え、精神的にタフになった。まだ29歳。勝負はこれからだ
最悪の4文字
何度目の出直しだろう。それでも表情は明るかった。東京オリンピックの中断期間に行われたエキシビションマッチ。前半戦わずか3試合で二軍落ちした
岡田俊哉にとっては、再び一軍の舞台に戻るためのアピールの場だ。7月31日の
日本ハム戦(バンテリン)の試合前、同僚の
田島慎二のもとへ、高校の9学年後輩の
立野和明があいさつに訪れた。新型コロナ禍らしく距離を空けて行われた先輩後輩の光景を見ていた岡田が思わず独りごちた。
「これがあるべき姿だよなぁ」 智弁和歌山高の1学年後輩、
西川遥輝はまだグラウンドに出ておらず、あいさつに間に合わず。
「前なんて、ナゴヤドームで試合があったときに『試合が終わったら名古屋駅まで車で送って』ってLINEが来たこともあるんですよ。アイツなめてますよね」と何だかうれしそう。こんな表情を浮かべるときの岡田は大丈夫だ。それは結果にも如実に表れる。この間、4試合に投げて4イニング無失点。腕は強く振れ、本来のコントロールも取り戻しつつあった。巻き返しへ、視界が一気に開けてきた。
良いことも悪いことも経験してきた。智弁和歌山高で甲子園に4度出場。卒業後の2010年ドラフト1位で中日入団。若くしてリリーバーとして頭角を現した華々しさの裏側で、一つの不安とずっと対峙(たいじ)してきた。
17年3月3日の夜。岡田は大阪にいた。侍ジャパンの一員として、WBC直前の練習試合に出場するためだった。夕食に訪れたのはJR福島駅からほど近い焼き肉店。締めに頼んだのは野球選手のイメージから最もかけ離れたものだった。
「白湯ありますか」 それをゆっくりとすすりながら少しだけ憂鬱な表情を浮かべた。
「体冷やさないようにしないといけないので。いつものことなんですけど」 血行障害──岡田が苦しみ、もがいてきた最悪の4文字だ。
一軍に初登板したプロ4年目の13年から悩まされていた。これが厄介なのはいつ症状が出るか分からず予測不可能な点。左手に症状が表れた瞬間に世界は一変する。投手としての才能も実績も一瞬にしてかき消されてしまう。薬を飲み、体を冷やさないように細心の注意を払ってきた。しかし、それも絶対ではない。最後はただただ願うことしかできない。
その5日後の3月8日。あの日、あのとき、日本中のお茶の間が岡田の一挙手一投足に見入り、そして抑えてくれと願った。1次ラウンドのオーストラリア戦(東京ドーム)の同点の5回、一死一、二塁から登板。ここで血の気が引くような事態が起きる。まったくストライクが入らない。あっという間に四球を与えて満塁に。6球連続ボールで、続く打者のカウントも2ボール。ここでマウンドに訪れた捕手の
小林誠司(
巨人)に聞かれている。
「どの球種ならストライク入る?」
「……分かりません」 そんなときだった。ドーム中から・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン