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野球浪漫2026

巨人・石川達也 結果がすべての世界で「あのときの自分の選択が間違ってなかったと、シーズンを終えて思えた」

 

突然、野球人生を左右する選択を迫られた。悩み抜いた末に生まれ育った神奈川を離れ、新たに求めた新天地で、本当の意味でのプロ野球選手としてのスタートを切ることができた。道を切り開いたからこそ見えた新たな目標に向け、これからも左腕を振る。
文=北川修斗(スポーツライター) 写真=桜井ひとし、BBM


プロ野球人生の岐路


 あのときの決断は正しかったと、左腕は結果で証明した。巨人への移籍1年目だった昨季はプロ初勝利を挙げるなど、自己最多の41試合に登板して5勝4敗3ホールド、防御率2.14と堂々たる成績をマーク。プロ入りから5年目にしてキャリアハイだ。順調なプロ野球人生の歩みに思えるが、24年のシーズン終了後に石川達也は人生の岐路に立たされていた。

「人生で初めて頭が真っ白になった。『野球人生、終わりそうだな』って」

 DeNAでは23年に28試合登板で防御率1.97、24年も15試合に登板して同1.93と安定した投球を披露。同年オフにはさらなる飛躍を目指し、メキシコでのウインター・リーグ参戦を考えていた。

 10月上旬。宮崎でのファーム日本選手権を終え、フェニックスリーグの初日。宿泊先で球団幹部に呼び出された。「メキシコへ行くにしても早過ぎるなって。嫌な予感がしたというか。一番悪い結果でクビもあるなと思った」。交渉の席に就くと、年俸はアップながらも提示されたのは育成契約だった。結果を残した手応えがありながら、想定外の事態。保留を選択し、期限を設けて熟考に入った。

 横浜市出身。ずっと神奈川を離れず野球を続けてきた。中本牧シニアを経て、「(当時の)渡辺(渡辺元智)監督、小倉(小倉清一郎)部長の下で野球がやりたかった」と地元が誇る強豪・横浜高の門をたたいた。同学年の楽天藤平尚真が注目を集める中で、負けじと1年生でAチームの練習に入るなど、食らいついた。

 1年秋からベンチ入りを果たすと、2年夏の神奈川大会決勝でも先発。強豪校で着実に成長を遂げ、自信も深めていったが、甲子園で壁に当たった。「自分の実力を教えてくれた場所」と振り返る。高卒でのプロ入りを目指し、全国屈指の激戦区・神奈川で結果を残してきたが、3年夏の甲子園では2回戦の履正社高戦で1回2/3を5失点。「ボコボコに打たれて……。自分はまだまだだなって」と感じた。

 横浜に帰る新幹線の中で、決断した。「大学で力をつけて4年後、プロに」。トップレベルを目指し、東京六大学リーグの法大に進学。同大のグラウンドは神奈川県川崎市。図らずも、大学でも神奈川で野球をやることになった。

 大学では困難に何度も見舞われた。左肩の負傷もあり、1年時はリーグ戦での登板なし。それでも「上級生で結果を出せるようにと考えていた。焦りはなかった」と地道にトレーニングを重ねた。2年生になると秋に3勝を挙げるなど14試合に登板。「充実した1年を過ごせた。3、4年でもっと結果を出して行ければ」と感じていた中で、3年生のときはわずか3登板に終わり、プロへ勝負の年となる4年時には4月に鉄棒トレーニングで左手首を骨折してしまった。

 社会人相手の練習試合で好投を重ね、リーグ戦へ向けて手応えを得ていた中での負傷。「『何でだよ』とか、『やっちゃったな』とか。いろいろ思いましたけど、プロを諦めることはなかった」と前を向いた。結果的に4年生では1登板のみも、DeNAから育成ドラフト1位指名。「なかなかうまくいかなくて、リーグ戦で結果を残せなくても、練習試合とかどこかで見てくれている人はいる。下級生にそういう希望を与えられたらいいなと思ってやっていた」という姿勢が実を結んだ。

 地元球団からの指名。「うれしかった。神奈川から出たことがなかったから、やっぱり縁があるのかなって。ベイスターズで長くやれたらいいなと思っていました」と振り返る。

後悔なき決断


 プロとして大事なことも教わった。同じ左腕の田中健二朗から声を掛けられ、1年目のキャンプでは・・・

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