1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 18勝17セーブでタイトル
低迷を続けながらも、新戦力の加入で明るい話題の絶えなかった1980年代のヤクルト。その明るさは、徐々に実力を兼ね備えるようになっていき、来る90年代に黄金期を迎えることになるのだが、世代交代が加速した投手陣にあって、強気の投球でエースの座に躍り出て、90年代の黄金時代に貢献したのが伊東昭光だ。ストライクを取るのは、
「勇気の問題」
と語るように、強気の投球といってもストレートの真っ向勝負ではなく、打者から逃げない投球を意味する。打たれてもいいから甘い球を投げ、それが“エサ”となって、やがて大事な場面で打ち取るときに生きてきた。投球の6割ほどがスライダー。ストレート以上の制球力で、両サイドで球1個分の出し入れをして打者を幻惑。スライダーだけでも3種類あり、大きく曲がるもの、小さく滑るもの、小さくタテに変化するものを投げ分けた。
帝京高の2年生エースとして甲子園に出場したときからスライダーが武器だった。決勝では
中西清起(のち阪神)を擁する高知商高を相手に熱投も、0対1のサヨナラ負け。卒業後は本多技研へ進み、ロサンゼルス五輪では全5試合に登板して金メダル獲得の原動力となる。PL学園高の
清原和博(のち西武ほか)、
桑田真澄(のち巨人)の“KKコンビ”が話題を集めた85年秋のドラフトでヤクルト、阪急、
ロッテの3球団が競合、交渉権を獲得したヤクルトへ入団した。
チームの低迷もあって1年目は4勝11敗と負け越すが、2年目の87年には初めて規定投球回にも到達して14勝11敗。のちには投球術で打者を牛耳ることが多くなったが、まだまだ当時は力まかせ、強気一辺倒で投げまくっていた。
迎えた88年、クローザーとして計算されていた
高野光が故障離脱すると、「開幕3連戦だけ」と言われて、その代役に。
「それが結局、最後まで」
と笑う。5イニング、6イニングというロングリリーフも少なくなかったが、
「若かったし、疲れも別に」
と、55試合すべてで救援登板。着実に勝ち星を積み上げていき、他人の勝ち星を奪うようで申し訳ない思いもあったというが、終盤になると
関根潤三監督からも「狙っていけ」と言われて、18勝17セーブで最多勝に。ただ、規定投球回には届かず、プロ野球で初めて規定投球回未満での最多勝でもあった。
だが、翌89年からは故障との闘いに。復活は92年だ。7勝で
野村克也監督のヤクルト初優勝に貢献。胴上げ投手にもなり、カムバック賞も贈られた。リーグ連覇、日本一となった93年には13勝を挙げて完全復活。2年ぶりリーグ優勝、日本一の95年にも10勝を挙げている。98年オフに現役引退、そのままコーチに。その後は指導者、フロントとして手腕を発揮した。
圧倒的なキャラクター
一方で、明るさでは誰にも負けず、数字よりも圧倒的にキャラクターでインパクトを残したのは、ヤクルトでの新人時代に「ギャアギャアうるさい」ことから“ギャオス”と呼ばれるようになった内藤尚行だ。
ドラフト3位で87年に入団。高卒ルーキーながら1年目から一軍で3試合、2年目の88年には22試合に登板してプロ初勝利も挙げている。マウンドでの雄叫びやパフォーマンス、93年の優勝争いでの熱投などでも印象を残すが、実績としては89年がキャリアハイだ。
「何も考えなくても投げれば抑えられる」
と振り返るほどの好調で、前半戦だけで8勝を挙げて球宴にも出場。最終的には自己最多の12勝を挙げた。翌90年は開幕投手に選ばれるも、その4月7日の巨人戦(東京ドーム)、審判4人制となって初めての試合で、気迫たっぷりの好投を見せたが、8回裏に
篠塚利夫が右翼ポール際をかすめてファウルゾーンのスタンドへ入る、いわゆる“疑惑の本塁打”。思わずマウンドに崩れ落ち、その姿でも強い印象を残した。その後は故障との闘いに。ロッテを経て
中日で現役を引退した。
写真=BBM