プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 恐怖の対象だったフェンスを見せ場にした平山
プロ野球における本拠地球場の外野フェンスにラバーを張ることが義務づけられたのは、1977年、三塁から転向したばかりだった
阪神の
佐野仙好が左翼の守備中に飛球を追って頭から激突、頭蓋骨陥没の重傷を負ったのが契機だった。もちろん、当時はコンクリート塀。佐野は昏倒し、グラウンドに乗り入れた救急車で搬送されて、そのまま入院することになる。
一方のグラウンドでは、捕球は確認されて打者はアウトになり、一走はタッチアップして生還していた。当然、人道的に問題視され、シーズン中に「プレーヤーの人命にかかわる事態などはプレーの進行中であっても審判員はタイムを宣告できる」というルールが追加されている。逆に、それまでは、外野手というポジションは、死と隣り合わせという表現が大袈裟ではない“危険な職場”であり、文字どおり命がけのプレーであっても、それほど報われない“残念な職場”だった、ということだ。佐野が約2カ月で戦列に復帰したのは不幸中の幸いだった。
さかのぼること40年前。チームは阪神のライバル、
巨人だ。37年2月15日に始まった静岡草薙球場のキャンプで、同じく左翼に、コンクリート塀に顔から激突して前歯を3本も折った外野手がいた。
平山菊二だ。
「いいところを見せようと、先輩たちの打撃練習で、全力で打球を追っているうちに、顔からフェンスにぶつかった」(平山)
と振り返る。前歯3本を折り、フェンス恐怖症に。武器の強肩で左翼のレギュラーは維持したが、コンクリート塀への恐怖は残ったままだった。43年3月に応召。
「ビルマ戦線で地獄を見た。あれで万事のんきだった私が変わった」(平山)
戦後、巨人へ復帰。野球人生を振り返って、
「バットでは、ホームラン王も首位打者も獲れん。あの(コンクリート塀への)恐怖症を乗り越えて守備で勝負しようと思った」(平山)
戦争で経験した地獄に比べれば、コンクリート塀への恐怖など小さなもの、ということだろう。そんな地獄と比較しなければならないほど、その恐怖は大きかったということでもある。そして、コンクリートの壁が残る空き地で、
「塀に右手をかけて飛び、逆シングルでグラブを塀の向こうに差し出す練習を、何度も何度もやりましたね」(平山)
恐怖心を克服した平山の名が全国にとどろいたのは、48年の東西対抗だった。東西対抗とは1リーグ時代の球宴とイメージすれば、あながち間違っていない。そこで、南海の
飯田徳治が放った柵越えの打球を好捕。これを野球評論家の
大和球士が「塀際の魔術師」と紹介した。
「私は運がよかったんでしょうね。たまたま、そういう打球が大舞台に来たんですから。あの形容がなかったら、みんな、それほど注目はしてくれなかったでしょう」(平山)
50年に出身地の下関に誕生した大洋へ移籍。初代キャプテンとしてチームを引っ張ったが、翌51年に足を骨折、53年に引退した。
高田の自信はクッションボールへの対応
巨人で“塀際の魔術師”の異名が復活したのはV9時代。ドラフト1位で68年に入団し、いきなり左翼のレギュラーとなった高田繁が、
「70年の
ロッテとの日本シリーズで2本くらいホームラン性の当たりをキャッチしてから、そう言われるようになった。特別、塀際が強かったとは思わないけどね」(高田)
むしろ自信があったのはクッションボールへの対応。返りを的確に予測して二塁へ矢のような送球、多くの二塁打を単打にとどめた。
「ビリヤードと同じで、この角度で当たったら、この角度で跳ね返る、というのがある」(高田)
という。71年には盗塁王に輝くなど俊足を生かした守備範囲の広さも武器だったが、75年オフ、
長嶋茂雄監督が三塁へのコンバートを指示。正月を返上する猛練習でアジャストした。そして72年に創設されたダイヤモンド・グラブを外野、三塁で6年連続の受賞。
「守備に自信があったら内野のほうがおもしろい。集中の度合いが違いますからね」(高田)
高田は80年まで巨人ひと筋を貫いた。
写真=BBM