3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 島田は言う「俺のカーブは魔球だった」
今回は『1972年9月4日号』。定価は120円。
8月16日の大洋─
中日戦(川崎)。大洋の先発が
島田源太郎と聞いて中日ベンチに怒りが渦巻いた。
「勝負を捨てたのか」「なめやがって」
1960年のVイヤーに19勝、さらに完全試合も達成した右腕だが、以後は鳴かず飛ばず。68年に14勝をして驚かせたが、70年秋「若手の面倒を見てくれ」と言われ、コーチ補佐になり、71年は登板がなかった。
それはこの年、7月29日、まずはリリーフでカムバックし、3試合無失点。この日はついに先発だった。ただし、「ほかに先発がおらんのや。何とか5回まで3点に抑えてくれたらええ」と
青田昇ヘッドコーチが言ったように先発ローテの谷間でやむなくだった。
しかし、その島田が好投を見せ、なんと6回二死までパーフェクト。最終的には2失点完投勝利を飾った。
コーチ補佐になって以後、
「コーチは給料が安い。なんとか現役で」
と言い続けていた島田もほっと一息だろう。
島田の武器は大きなカーブ。若い投手たちに、
「俺のカーブは魔球と言われたほど落差があったんだ」
と言っていた。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM