
1965年11月13日の記者発表の写真。蔭山[左から2人目]は鶴岡[右端]の後継監督に就任したが、この4日後に急逝した
「鶴岡の頭脳」と呼ばれた名参謀
南海(現
ソフトバンク)のエース・
杉浦忠が指揮官の異変に気付いたのは、1965年11月16日、大阪のホテルで開かれたチームメートの結婚披露宴でのことだった。南海監督に就任したばかりの
蔭山和夫は主賓の挨拶(あいさつ)をしたが、意識が朦朧(もうろう)としていて何を言っているのか分からず、しかも途中、数十秒ほど絶句してしまった。普段の蔭山さんなら絶対にあり得ないのにと、杉浦は思った。
四番打者にして正捕手の
野村克也は、蔭山とテーブルが同じだった。そのときの蔭山の顔が忘れられないと、野村はのちに振り返っている。目の下には真っ黒なクマができ、まるで死人のようであった。食事にもまったく手をつけない。この年三冠王に輝いた野村が、努めて明るい声で祝賀会への参加をお願いしても、蔭山は「俺、ちょっと行かれそうもないわ」と力なくつぶやいた。
蔭山は、一人で会場を出ることができなかった。肩を貸してタクシー乗り場まで運んだのは、投手の
森中千香良だった。森中は「大丈夫ですか?」と語りかけたが、蔭山はうんうんとうなずくばかりだったという。
列席した南海選手たちが、来季指揮を執るはずの新監督を見たのは、その日が最後だった。
早大で主将を務めた蔭山は・・・
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