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<90年代のプロ野球を語る>内藤尚行×川崎憲次郎 平成ドロップ! 出張版 ヤクルト編「野村ヤクルトはすごかった!」

 

1990年代のセ・リーグの主役は、最多4回の優勝を誇る「野村ヤクルト」だ。今回は以前2度掲載した「平成ドロップ!」の出張版として、ヤクルト1990、91年の開幕投手である内藤尚行さんと、93年日本シリーズMVPの川崎憲次郎さんの爆笑トーク第3弾をお届けする。
構成=井口英規
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※第2回はこちら


ずっと長かったミーティング?


──本誌から続く『平成ドロップ!』第3弾は90年代特集として、野村ヤクルトについてお聞きします。内藤さん、最初の野村(野村克也)さんとの思い出は。

内藤 (1989年オフに)ノムさんのヤクルト監督就任が発表され、選手としてはどんな監督か気になるじゃないですか。僕は89年、成績も出ていたし(12勝8セーブ)、どんな監督が来ても使いやすい選手でいたいなとは思っていました。でも、野村さんの就任後すぐテレビ局の取材があって感想を聞かれ、「野村さんと言えばミーティング、ミーティングと言えば眠くなる」と言っちゃったんですよ(笑)。ノムさんは見てないだろうと思っていたんですけど、最初、ユマ(春季キャンプ地)での1月31日のミーティングが始まった瞬間、怒られました。

川崎 ハッハハハ。

内藤 「ミーティングで眠くなるヤツがいるらしいな、なあ、内藤」って(ノムさん風の言い方で)。ええ! 俺ですか、って感じでしたが(笑)、今でも広澤(広澤克実)さんが言ってくれるんですよ。「お前、一番最初に野村さんに怒られたよな」って。これはこれでおいしいですよね(笑)。

──いきなりでしたか。

内藤 何かしてならともかく、すぐです。恥ずかしいというのはあったけど、会場がドッカンでしたからね。ノムさんとしては、ギャオス内藤をネタにして、つかみはOKという感じじゃないですか(笑)。でも、あのとき僕は、次に「ウチは3割30本はいらん。なあ、池山(池山隆寛)、広澤」と言うかと思ったら言わなかったんですよ。使い分けでしょうね。2人はうちの大黒柱だから、いきなりいじるわけにはいかない。僕はいじられてもへそを曲げたりはしないタイプだと分かっていたんじゃないですか。でも、ノムさんのミーティングはメチャメチャ面白かったですよ。眠くなったことなんて一度もない……いや、たまにしかない(笑)。あのとき憲次郎はいたっけ?

川崎 90年ですよね。もちろんいました。

内藤 ノムさんは、「俺はお前らに財産をやる」って言ったんですよ。実際、「野球ってすげえな。考えるスポーツなんだ」って、ノムさんのミーティングで初めて思いました。

川崎 でも、ほかの球団もそうだけど、1月31日のミーティングと言えば、キャンプの練習メニューとか、門限何時とかの連絡じゃないですか。それが、いきなり講義が1時間とか1時間半でしょ。「これってミーティングじゃない、講演じゃん」ってびっくりしました。それからしばらく野球の話もなかったですしね。

内藤 最初は組織論、そのあとプロとはどうあるべきか、とかだったな。

川崎 人としてどうあるべきか、もありましたね。

内藤 野球につなげながら話していたけどね。それで10日くらいしてから野球に入って投手編、打撃論となっていった。「耳順(じじゅん。聞く準備)を持って」と言われたけど、計画、実行、確認の重要さとか、ものすごく勉強になりました。それがのちのち出版される「野村ノート」にもなったけど、僕らは、その前にもらっていたんだからありがたいよね。

川崎 みんな必死にノートを書いてましたね。

内藤 一茂(長嶋一茂)君以外ね(笑)。「書かなくていいの?」って聞いたら、目を閉じたまま「うん、うん」て瞑想してたけどね(笑)。

川崎 よく覚えているのが12カウントです。昔のストライクが前の数え方だけど、0-0から2-3まで12を挙げて、打者心理、ピッチャー心理を1つずつ細かく説明してくれた。昔から1-2、1-3をバッティングカウントって言っていて、何となく打者有利と思ってやっていたけど、こういうことでバッター有利になるんだって教えてもらいました。

内藤 だから、指導する立場になっても、ただ「1-2はバッティングカウントだから思い切っていけ」じゃなく、「投手と打者がこういう心理になるからこういけ」と言える。ノムさんに教えてもらったことで、いろいろな状況における準備ができるようになったと思います。

川崎 それまでは何となくだけでしたからね。

──ミーティングは毎年長かったんですか。話すことが同じになるような気がしますが。

川崎 ずっと長かったです。毎回、「新しいヤツも入ってきたから、もう1回やろう」って(笑)。

内藤 聞くたび発見はあったけどね。ただ、書くほうは「俺は疲れたから」って、2年目からマネジャーがホワイトボードに書くようになった。

──1年目は野村監督が自分で書いていたんですか。

川崎 そうでした。「本当は一文字いくらなんだぞ」とか、「俺の講演は1回200万なんだぞ」とか言いながら(笑)。あと野村さん、字を消すのがすごく早かったんですよ。前のヤツの背中でホワイトボードが見えなかったりすると、どけっ! とか思って必死に書いていました。「まだ書いてません。消さないで!」と思いながら(笑)。

奇跡の「ギャオスの10カ条」


──内藤さんは野村ヤクルトの初年度、90年の開幕投手ですよね。

内藤 そうなんですよ。俺でいいのかなって思っていました。事件も起こしましたし。

川崎 何でしたっけ?

内藤 疑惑のホームランね(4月7日、東京ドームの巨人戦。巨人・篠塚和典のライトポール際のファウル性の打球がホームランと判定され、ヤクルトが猛抗議)。でも、ずっと疑問だったのは、ノムさんがあのとき「お前に開幕投手を任す」って言ってくれなかったことなんですよ。1週間くらい前に投手コーチに言われただけだった。直接言われたらメチャクチャ張り切ったのに。亡くなる前、ベースボールの企画で座談会をさせてもらったんですが(『平成スポーツ史』)、そこでノムさんにやっと聞けました。

90年開幕戦で疑惑のホームランを浴び、ヒザを着いた内藤さん


川崎 理由は何だったんですか。

内藤 「ああ? お前はバカだからだ」って(笑)。

川崎 ワハハハ。

内藤 ハハハハ。それが野村さんから見た俺の評価なんだろうな。調子に乗りやすいとか、すぐ表情に出ちゃうとか。まあ、仕方ないけどね。

川崎 90年は何勝したんですか。

内藤 10勝かな。開幕戦のあとは腰痛もあって抑えに回ったんだ。そう言えば、大洋戦(4月15日、横浜)にリリーフで出て、ピンチを抑えたあとに決勝ホームランを打って勝ち投手になったことがある。このときコーチの丸山(丸山完二)さんはバントのサインだったけど、ベンチを見たら野村さんがバットケースの陰で「振れ!」とジェスチャーしていた。ランナー一、二塁1アウトかな。それで振ったらホームランでした。詰まったけど、遠藤(遠藤一彦)さんからのホームランです。すごいでしょ(笑)。そこからギャオスブーム到来です。

──2年後の92年が野村監督になって初優勝ですね。

内藤 種を蒔き、水をやり、花を咲かせるという就任時の言葉どおりでした。5位、3位、1位でしょ。

川崎 僕は91年はよかったけど(14勝9敗)、92年はヒジを壊して、まったく投げてなかったんですよ。だからほとんど記憶がない。

内藤 一久(石井一久)を日本シリーズで先発させたのは92年だよね(対西武第3戦)。あれも衝撃的でした。高校出のルーキーで、まだ公式戦で勝ったことなかったのに。ただ、僕は連覇の92年はヒジ痛で前半だけ、93年は肩を痛め後半だけで、どっちも今一つだったんですよね。

──ギャオスの16球は。

内藤 93年の9月2日(ナゴヤ球場の中日戦)ですね。

川崎 日付まですらすら出ますね(笑)。

内藤 あれが優勝に導いたターニングポイントの試合だからね。これは自信を持って言えます。

川崎 確かに、あれはすごかった。

内藤 だいたい3回から肩をつくって出たのが15回ってありえんでしょ。

川崎 そんなにずっとつくってたの?

内藤 先発が荒木(荒木大輔)さんで、毎回のように走者を出してたからね。これはダメかなと思ったけど2点で粘って、9回表、池山さんが同点ホームランを打った。よし俺かと思ったら、高津と言われてガクッと(笑)。しかも、そのあと高津が5イニング投げた。

川崎 え、そんなに。

内藤 でも、高津も、ずっと先頭打者を出してたから、こっちはそのたび肩をつくった。どんだけつくればいいんだって思っていたよ。だって夕方6時半くらいから初めて、登板は夜11時過ぎだよ(笑)。1試合完投した以上の球数は間違いなく投げている。

──15回裏、無死満塁で出番でしたね。しかもパウエル(アロンゾ・パウエル)、落合(落合博満)、彦野(彦野利勝)と強竜打線のクリーンアップです。

内藤 真っすぐで攻めました。すべて古田君のリードですけどね。

川崎 僕はあがりでしたが、悪いけど、これは無理だなって思って見ていた。流れが完全に中日だったから。そしたらパウエルが三振、これは「まあ、あるかな」。落合さんは無理だろうと思ったら、また三振。「うわっ、これはすげえ」と。でも、こういうときの3アウト目は難しいなと思ったら、またまた三振。「マジか、すげえな!」って(笑)。あるんですよ、100人いたら99人が無理だという場面が。あそこがそうだったんです。それを抑えたのは、ほんと奇跡でしたね(試合はそのまま2対2で引き分け)。

ギャオスの16球のあと絶叫する内藤さん


内藤 ノムさんは、きっと嫌々、僕を出したと思うけど、東京に戻ってからのミーティングで初めて褒めてくれた。「これは本になるぞ」って(笑)。

──2位の中日に連敗でゲーム差なしで抜かれて、しかもシーズン初の同一カード3連敗の危機だったんですよね。

内藤 そうです。そうだ、憲次郎、93年、ユマのミーティングで最初、ノムさんが何を言ったか覚えてる?

川崎 「今年は日本一になるぞ」ですか。ずっと言っていましたよね。

内藤 そう。で、そのための「優勝するための10カ条」があって、その中に同一カード3連敗しないことがあったんだ。

捕手・古田のすごみ


──93年、川崎さんは中盤から勝ち始めましたね。

川崎 あの年は最初から投げてはいたけど、ヒジがずっと痛かったんですよ。初勝利も5月かな(12日)。そのあともなかなか勝てなかった。

内藤 智(伊藤智仁)と入れ替わりみたいに勝ちだしたんだよね。彼は7月までだったけど(7月4日で戦線離脱もそれまで7勝2敗、防御率0.91)。

川崎 智はすごかったですね。スライダーが見えなかった。

93年優勝の原動力となった伊藤智


内藤 プロ入り前の(バルセロナ)オリピックの映像を見ていても面白いくらい曲がったよね。ギューン、ギューンって大きく。

川崎 しかも本当のスライダーじゃないですか。ほかの選手のスライダーは少し落ちるんですよ、カーブみたいに。あいつは本当に横滑りする。

内藤 あのフォームをノムさんは教科書と言っていたからね。

川崎 教科書かどうかは分からない。100人いたら100人できないでしょ、あの投げ方は。肩の可動範囲が異常に広かったからできたけど、だから短命だったとも言えます。そうそう、話は変わるけど、僕が93年で一番覚えているのは甲子園での阪神戦の帰り、ギャオスと一緒にバスの中で広澤さんに呼びつけられたことです。「おい、部屋に来い」って言われ、着いたらそのまま広澤さんの部屋に直行し、正座で説教された(笑)。

内藤 うそ、覚えてないよ、俺。

川崎 試合に負けたんですが、俺たち2人が席でこそこそしゃべりながら笑っていたんですよ。それを広澤さんが見ていた。「敗戦投手がいるのに何をやっとんじゃ、人の気持ちを分かれ!」って、めっちゃ怒られました。

内藤 マジで? ヤクルト球団の“集合”の最後は飯田の哲ちゃん(飯田哲也)じゃなかったのか(笑)。

──93年はリーグ連覇で再び西武との日本シリーズでしたが、第4戦で川崎さんの涙のシリーズ初勝利もありました(4勝3敗で日本一)。

川崎 なんでかな。安心感とうれしさで自然と出ちゃったんですよね。92年に投げられなくて悔しい思いをしたこともあったでしょうね。日本シリーズも神宮のスタンドで見たから。

93年日本シリーズ第4戦のお立ち台で川崎さんが大号泣


内藤 92年の日本シリーズは岡林(岡林洋一)が主役だったね。

川崎 日本一にはなれなかったけど、岡林さんが3試合完投でしょ(1勝2敗)。すごかったですよね。

内藤 彼はコントロールいいし、フォークが落ちるフォームだったよね。

川崎 それでまた僕はノムさんに怒られるんです。「岡林はコントロールいいのに、お前はなんで悪いんだ」って(笑)。2時間の説教が2回くらいありましたからね。バッティングケージのところに呼ばれてずっと。「なんでお前、あんなとこ投げたんや」から始まって、一度は練習中止になるくらい怒られた(笑)。カズ(石井一久)とタツさん(西村龍次)と僕は、ほんといつも怒られてました。

内藤 うらやましいな。俺はあまり怒られてないんだ。もう少し怒られたかった。対等にしゃべっちゃうタイプで、ずうずうしいから避けられたかな。ノムさんに「僕はこう思いますけどね」と堂々と言ってましたからね。たぶん、古田(古田敦也)君が言ったら百倍返しだったと思うけど、僕は聞いてもらえた。

──怒られたことはない、と。

内藤 たまたま食堂で2人きりになったとき、「お前、強打者への初球は何を投げる?」と言われたとき、「そうすね、アウトコース真っすぐですかね」と言ったときは、めちゃくちゃ怒られました。「バカ、勝負球だ」って。

川崎 考えてないと思うと怒りましたね。間違っていても「こういう理由で投げました」と言えると怒らなかった。93年の日本シリーズもそうですよ。あのとき4戦目の飯田哲ちゃん(哲也)のバックホーム(センターからの好返球)と7戦目の古さん(古田)のギャンブルスタートが大きかったけど、全部、ベンチのサイン無視ですからね。哲ちゃんのときは「後ろを守れ」のサインだったらしいですよ。

内藤 グラウンドは選手だからね。ノムさんは、そこで監督の考え以上のことをすれば怒らなかった。

川崎 飯田の哲ちゃんによれば、あのとき風がセンターからホームに吹いていたんですよ。だから頭は越されないだろうと前に守ったって。いろいろ考えていて準備できていたから、あの球が投げられたんですよね。

内藤 準備が大事ということだね。それが「野村の教え」でもあったしね。

──内藤さんは95年にロッテに移籍でしたね。

内藤 通告があったとき、「断ったらクビですか」と言ったら「そうだ」と言うんで、古田君にロイヤルホストでコーヒー飲みながら相談した記憶があります。「おおそうか、お前もそんな年齢になったのか」って言われましたけどね(笑)。僕の中では、ヤクルトを出る以上に、古田君とバッテリーが組めないのが寂しかった。

──捕手・古田のすごさは。

内藤 根拠ある配球をしてくれますね。観察力、洞察力が優れていて、それまでは追い込んだらフォークがルーティンだったのに、初球からフォークで入ったりする。僕はノムさんと古田君の出現が今の野球をつくったと思います。

ベンチでの野村監督と古田。90年代ヤクルトの象徴となった2人である


川崎 キャッチャーにあそこまでスポットライトが当たったことはないんじゃないですか。巨人戦の前に新聞を見ても、書いてあるのは「ジャイアンツ打線対古田」でしょ。俺たちどこにいったのって(笑)。そのくらい古さんなんですよ。

──投げやすかったですか。

川崎 もちろんです。古さんは投手が投げたい球を投げさせてくれる。あとサイン決まるのが早かったんで、ストレスがなかったですね。

内藤 僕が現役をやめてから見ていても、古田君のリードは変わらずすごかった。だって(巨人の)松井秀喜高橋由伸と打席でずっとクビをかしげていましたからね。勝負どころでど真ん中が来たり、彼らの予測とまったく違う球を投げる。僕は、古田君がいる限りヤクルトは強いだろうと思っていました。兼任監督になったときも、ずっと試合に出ていたら違ったと思うけど、「肩が痛くて無理だった」と言ってましたね。

──80年代の少し荒っぽい時代からヤクルトの登場で、90年代の球界はスマートになった印象があります。

内藤 スマートかどうかは分かりませんが、僕らのころは巨人戦しか全国放送もなかったし、神宮のお客さんも巨人7割、ヤクルト3割。それが優勝し出したことで五分五分になっていった。あとテレビがヤクルト軍団をバラエティーですごく使ってくれたこともあったでしょうね。

──野村さんは選手のバラエティー番組出演に賛成だったんですか。

川崎 ノムさんが「どんどん出ろ」って言ってたんですよ。でもどうかな。僕は野球が本当に変わったのは2000年代からだと思います。

内藤 うん。CSが登場して巨人だけじゃなく全球団が中継されるようになったのも大きかった。パ・リーグの球団も今ではセと変わりない人気ですしね。

──最後の質問ですが、90年代の野村さんの功績について。

内藤 BCリーグのアルビレックスで監督をやらせてもらったとき(2013〜14年)、あらためてありがたい財産をもらったなと思いましたから。別にノムさんの野球をやろうとは思わなかったけど、ノムさんのやり方が頭に入っているから、それを選手にかみ砕いて説明することができたんです。ベースがないと、砕くこともできないですからね。

川崎 いま球界にヤクルト出身の監督、コーチがすごく多いじゃないですか。みんな少なからず野村イズムが入っていると思いますよ。高っちゃん(高津臣吾現ヤクルト監督)だってそうだと思います。本人に聞いたことはないけど、必ずどこかに入っていると思いますよ。そのくらいノムさんの残したものは大きいと思います。

川崎憲次郎[左]、内藤尚行[右]


PROFILE
ないとう・なおゆき●1968年7月24日生まれ。愛知県出身。右投右打。豊川高からドラフト3位で86年ヤクルト入団。89年には12勝8セーブを挙げた。90、91年は2年連続開幕投手。95年ロッテ、96年6月、中日に移籍し、97年限りで現役引退。愛称はギャオス。

かわさき・けんじろう●1971年1月8日生まれ。大分県出身。右投右打。津久見高からドラフト1位で89年ヤクルト入団。2年目の90年に12勝を挙げ、頭角を現す。98年に最多勝、沢村賞。2000年のシーズン後、FA権を行使し中日に移籍、04年限りで現役引退。

週刊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球 EXTRA1 セ・リーグ編 2021年11月30日発売より

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