チャンスのあとにピンチあり。痛いほど知っている。だが、鈍く重い右腕にとって、見えかけたサヨナラ優勝はあまりに甘美だった。第71回全国高校野球選手権大会、決勝。東北勢初の優勝を目ざす仙台育英にとって、チャンスを逃して突入した落胆の延長に、魔物がいた。 著=楊順行、写真=BBM ※記録は発刊時の2016年現在 ええい、もうどうにでもなれ──。
帝京(東東京)の前田三夫監督は、そう居直った。
1989年夏、第71回全国高校野球選手権の決勝。どちらが勝っても初優勝という試合は帝京の
吉岡雄二(元東北
楽天など)と、仙台育英(宮城)の
大越基(元福岡ダイエー)というエース同士の投手戦になった。両チームとも几帳面に0を連ねて9回裏、仙台育英が二死から一番・大山豊和の三塁打で、一打サヨナラのチャンスをつかむ。
育英にとってはポテンヒットでも、内野安打でも、あるいは暴投などのバッテリーエラーでもサヨナラ。つまり、東北勢初の全国制覇という野望に手が届きかけているわけだ。
一方の前田は、こう思っていた。過去、センバツでは2回決勝に出て、いずれも負けている(80年●高知商、85年●伊野商・高知)。甲子園では、これが3度目の決勝戦になる。もしここでダメなら、ずっと優勝はできないだろう。オレは、そういう定めなんだ──。
前田、このとき不惑の40歳。帝京の監督に就任して、18年目である。
72年に監督となった当初、あまりの練習の厳しさに、部員が4人にまで減った。これには焦った。いまでこそ教員免許を持つ前田だが、当時は事務職員としての採用だ。監督として結果を出さなければ、職を失いかねない。残ってくれた4人まで部を辞められてはかなわないと、自宅に泊め、夕食をつくって食べさせ、弁当の面倒まで見た。
そのかたわら、足を棒にして帝京の名前を売り込んだ。大卒1年目、まだ安月給だから、手弁当に自転車か徒歩で中学校を回る。有望な選手がいたら、ぜひ帝京を受験させてください……。
当時の東京といえば、日大系列や早稲田実が圧倒的に強い時代である。帝京は、せいぜい都のベスト8に入ればいいところ。さらにそのころは、あまりガラがいい校風ではなく、偏差値も低水準だった。1年間で300近くの中学にあいさつに回ったが、ほとんどが門前払い。それでも、翌年には30人ほどが野球部に入ってくれた。前田が回想してくれたことがある。
「うれしかったですね。部員がいるのが、こんなにいいものかと思った。なにしろ4人だと、フリーバッティングをするのにピッチャーとバッターのほかには2人しかいない。僕がキャッチャーをして、やっと守備に2人です。ただ翌年、部員が増えたのはいいんですが、試合用のユニフォームが人数分そろっていないんです。それを自腹でつくり、またボールもろくになかったので、それも自腹。1、2年目のボーナスなんて、右から左です」
甲子園通算勝利で歴代3位タイの大監督にしても、駆け出し時代は涙ぐましいのである。
そのとき帝京に入学してきたのは、日大系などの強豪から誘いがなかった生徒たちだ。名門への対抗心を武器にスパルタ練習にも耐え、前田の情熱によってみるみる力をつけていく。74年の秋に東京で準優勝、75年の春には優勝と、トップレベルの地位を固めていった。そして、78年のセンバツについに初出場。先述のごとく80年センバツでは、
伊東昭光(元
ヤクルト)を擁して準優勝。前田の就任9年目のことだ。
ただそこから、勝てない時代が続く。帝京のいる東東京は、早稲田実・
荒木大輔(元横浜など)の時代に入るのだ。伊東の1学年下にあたる荒木は、早実在学中の80年から82年夏まで5季連続で出場しているから、帝京はその間、甲子園から遠ざかったことになる。
準優勝投手・伊東がいるのに、なぜ勝てないんだ。前田の役目は基盤づくりで終わり、あとは帝京のOBが引き受けよう……そんな声が、耳に届いてきたのはこのころだ。弱いころは見向きもしなかった人々が、強くなったとたん、ただOBであることを理由に、我が物顔で選手のコーチを始める。イヤ気がさした前田は、もう身を引こうと思った。
「あるときには、OBの一人が“前田では勝てない”と校長に直訴してね。私としては、スタートしたときから苦労して、手塩にかけて部を育てた自負がありますから、みすみす手放したくない。そこで校長が“よし、1年以内に・・・
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