一番最後の取材は楽天コーチ、野村克則さん。「まだ、気持ちの整理ができていません」と言いながらも、父の思い出をしみじみと語ってくれた。2月28日に発売となった野村克也さんの追悼号の制作は、われわれにとっても、今まで知らなかった「野村克也像」を発掘していく作業になった。なお、この号で掲載している連載は、生前の野村さんが書きためていた原稿の最後の1回となる。 文=井口英規(本誌編集長) ブンブン丸の涙
「あのインタビューのとき、監督から『池山に悪いことしたな。あのまま好きなように打たせたほうがよかったのかな』と言ってもらえた。あれを聞いて、監督の下で野球をやってきてよかったなと思いました。当時の監督から出る言葉じゃないんですが、いただいただけで、すごくうれしかった……」
2月21日、宮崎県・西都の
ヤクルト二軍キャンプ。ひだまりにパイプ椅子を置き、
池山隆寛二軍監督に話を聞いたときの言葉だ。
昨年春、『平成スポーツ史 プロ野球編』で、野村さんと、池山さん(当時解説者)、
内藤尚行さんの座談会を行い、その司会役を務めた。平成年代プロ野球の大きな花の一つ、「野村ヤクルト」について語っていただくためである。そう言われて振り返ると、話の途中で一瞬、池山さんの表情が変わったような気もしたが、正直、深く考える余裕はなかった。
あのとき……想定内ではあったが、ギャオスこと、内藤さんのテンションが高めで、時々、野村さんの目が鋭くなった。嫌な汗を流しつつ顔に笑みを張り付かせ、必死に話を進めていた。
ホームランか三振かの豪快なバッティングが売りだった池山さんに、野村監督が「ブンブン丸では困る」と何度も言っていたという話が出た。池山さんに「当時、野村監督と、ぶつかったことは」と聞くと、「監督と選手でそれはない。ただ、迷ったことはあります」と答えた。
その直後ではないが、話の中で野村さんがボソリと言ったのが「池山に悪いことをしたな」だった。
チームの勝利のため、池山さん本来の打撃に一種の制限をかけた。それは優勝、日本一によって見事に結実したのだが、野村さんの中に、そのままで行かせたほうが、池山さんが一人のバッターとしては成長したのではという思いが当時からあったのだろう。
「池山はマジメだから変わろうとした」とも言っていた。「俺は右を向けと言えば、左を向く三悪人に鍛えられた」とよく話していたのが、南海時代の教え子の
江本孟紀さん、
門田博光さん、
江夏豊さん。彼らに接するイメージのまま池山さんにも当たり・・・
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