1978年に球団初のリーグ優勝、日本一を達成したヤクルト。しかし、以降は再び低迷期に入っていた。それでも85年ドラフト1位入団の広沢克己(当時の登録名)ら有望選手が続々と入団することで風向きが変わる。ステップアップの途上にあった主砲が、当時のチームと指揮官を語る。 構成=富田庸 写真=BBM 
関根監督との思い出として真っ先に挙がるのが、キャンプでの猛練習だという
仏の顔をした鬼!
万年Bクラスのチームの改革は容易ではなかった。1987年、そこにやってきたのが関根潤三監督だ。開幕時に還暦を迎えていた指揮官は、猛練習で若手選手を鍛え抜いた。Bクラスを抜け出すことはできなかったが、チームは確かに生まれ変わろうとしていた。 私が入団したのは85年で、当時の監督は
土橋正幸さんでした。江戸っ子気質で、とにかく短気な方でしたから、87年に関根さんが新たに就任されたときの印象は、とにかく穏やかで優しげといった感じでした。そして
安藤統夫さんも一軍作戦コーチとして一緒に入られましたね。
当時、関根さんは60歳だったんですね。当時25歳の私にとっては「おじいちゃんが入ってきた」というイメージでした。ただ、そんな印象も練習が始まると一変します。とにかく練習時間の長さは、歴代のスワローズの中でも一番じゃないですかね。休日も全然ないですし。
私はプロ入り前に明治大学で野球をやっていましたから、プロに入った当初の印象は、「あ、こんなに休みがあるんだ」でした。キャンプでは4日に一度、休みがあるわけですから。高校、大学で休んだのは正月の3が日とお盆くらいのもの。春季キャンプでは4日目になるとベテラン選手が「長いよ~」と愚痴っていたんですが、それが不思議で仕方なかった。だから関根監督になって、大学時代に戻ったような感覚でしたね。僕はまだ若かったからよかった。プロ10年目くらいで関根監督に当たっていたら、おそらく耐えられなかったはずです(笑)。
池山隆寛など当時の仲間と昔を振り返ると、必ず秋季キャンプの話になるんです。春は・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン