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伊原春樹コラム

伊原春樹コラム「長嶋茂雄巨人終身名誉監督が逝去 勝負に対して熱かったミスター 嫉妬心が垣間見える言葉も」

 

第1次巨人政権時代に長嶋監督の下で筆者もプレーした[写真=BBM]


 現役時代、サードを守っていた私にとって、やはり長嶋茂雄さんはあこがれの存在であった。広島の田舎ではなかなかテレビで巨人戦が放映されなかったが、日本シリーズは別。当時はV9時代で川上哲治監督が率いる巨人は毎年、日本シリーズに進出していた。テレビ画面を通して長嶋さんのカッコ良さをまぶたに焼き付けていた。

 高校、大学時代はユニフォームの着こなしにはじまり、ゴロを捕って一塁へ送球したあと右手をヒラヒラさせる仕草など一挙手一投足をマネしたものだ。ただ、打撃を真似するのは難しかった。タイミングを崩されてもバットの芯に当てる。長く持っていたバットを始動時に短く持ち替える。こういった芸当は並外れた運動神経を持っていなければなかなか再現できなかった。

 そういえばプロ野球選手になったばかりのころ、ウエスタン・リーグで中日と戦った際、中日ベンチから「チョーさん、チョーさん」という声が飛んできたこともある。相手から見ても、私のプレーが長嶋さんと似ていたということだろう。

 実は、私は長嶋監督の下でプレーもしている。5年目の1975年、チームは西鉄から太平洋クラブとなっていたが江藤慎一監督のスタイルに合わずに私は球団上層部にトレードを志願したのだ。すると加藤初とともに巨人・関本四十四玉井信博との交換トレードが決まった。76年から長嶋監督が率いて2年目の巨人でプレーすることになったのだ。

 ファーストコンタクトは多摩川での自主トレだった。ある日、長嶋監督の自宅で食事会を開くとマネジャーから聞き、一軍選手とトレード組でうかがったこともある。キャンプは二軍スタートだったが、途中で一軍に合流。言葉を交わす機会は少なかったが、フリー打撃をしているときに、ケージの後ろから「バットに当てるの、うまいねえ」と、独特の甲高い声で褒められたのは忘れられない。

 それから覚えているのは、球場入りするのがものすごく早かったことだ。本拠地・後楽園球場でナイターの場合、14時ぐらいから全体練習がスタートする。私は12時半ごろには球場へ行って練習に備えていたのだが、そのころにはすでに長嶋監督は球場にいる。何をしているのかというと、グラウンドでランニング。体形を維持する目的があったのだろう。今回の報道で「長嶋茂雄をずっと演じているのも大変なんだよ」と語っていたという記事を目にしたが、やはり“長嶋茂雄”のイメージを崩さないために日ごろから努力していたのだろう。

 試合となれば、誰よりも熱い。思い出されるのは神宮での試合のことだ。この球場はベンチからロッカールームへ入るには鉄のドアがあり、それはいつも開けっ放しだった。長嶋監督は怒りの表情は決して周囲の目があるところでは見せなかった。抑え切れなくなると決まってロッカールームへ。あるとき、試合中に長嶋監督が興奮して、ロッカー側から鉄のドアを蹴り上げた。するとドアが閉まり、開かなくなってしまった。ロッカーから「おい、開かないぞ」という長嶋監督の焦った声が聞こえる。だが、国松彰コーチが「しばらくほっておいて、頭を冷やさせたほうがいい」と言い、みんなで笑いをこらえていたのが思い出される。

 私はベンチでは長嶋監督のそばに座っていた。控え選手が攻撃のサインを出すことになっていたからだ。長嶋監督が「ヒットエンドラン」とつぶやいたら、控え選手が三塁コーチャーにサインで伝達する。その際、長嶋監督は常に、「三塁コーチャーは打者にサインを出したか」とわれわれに聞いてきた。「自分で確認すれば事足りるのに……」と思ったものだ。そういえば当時から球審に代打を告げるとき、バントの格好をしながら「バッター・〇〇」と口にすることもやっていた。

 2002年に私が最初の西武監督に就任した際には、前年限りで巨人監督を退任した長嶋さんが南郷まで来てくれたことも覚えている。ちょうど和田一浩がフリーバッティングを行っていて、「この子は誰?」と興味を示した。「今年、キャッチャーから外野手に転向した和田です」と紹介すると、「いいバッティングしていますねえ」と高評価。ひと言、ふた言、和田に言葉も掛けてくれた。

 シーズンで和田は打率.319、33本塁打、88打点と前年から大きく成績を伸ばし、優勝に貢献。日本シリーズは原辰徳監督が率いる巨人と戦うことになり、東京ドームでの初戦、監督室に長嶋さんが顔を出してくれた。「長嶋さんがキャンプで指導してくれた和田も成長して、おかげさまで優勝できました」などと会話していると、おもむろに「伊原、日本シリーズ、頑張れよ」と言い、ちらっと「ジャイアンツは大したことないから」と口にした。

 ここからは私の推察だが、自分が監督を辞めた後にチームが優勝することに対して、面白くない気持ちが生まれるのは野球人の性(さが)だ。監督を退くということは、ほとんど成績が伴わなかった場合だ。自分ではうまく行かなかったのに、後任が好結果を残す。嫉妬に駆られるのは致し方ない。思えば、86年に広島と西武が日本シリーズを行った際も広島市民球場で前年まで広島監督を務めていた古葉竹識さんに強く言われた。

「伊原、絶対に負けるなよ」――。

 長嶋さんからこぼれ出た言葉から、古葉さんに思いをぶつけられたことを思い出した。それもまた、“野球人・長嶋茂雄”の本性なのかもしれない。

PROFILE
伊原春樹/いはら・はるき●1949年1月18日生まれ。広島県出身。北川工高(現・府中東高)から芝浦工大を経て、71年ドラフト2位で西鉄入団。76年巨人に移籍し、78年古巣ライオンズに復帰して80年限りで現役引退。通算成績は450試合出場、打率.241、12本塁打、58打点。81〜99年に西武で守備走塁コーチを務め、西武黄金時代の名三塁コーチとして高い評価を受ける。2000年阪神コーチ、01年西武コーチから02〜03年西武監督、04年オリックス監督を歴任。07〜10年巨人ヘッドコーチを務め、14年は西武監督。現在は野球解説者として活躍している。
伊原春樹の野球の真髄

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座右の銘は野球道。野球評論家として存在感を放つ伊原春樹の連載コラム。

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