
筆者[上]と1枚の写真に納まるスタンカ/写真=BBM
体は米国人でも、魂は日本人だったスタンカ
この号が出るころには、平成最後の日本一も決まっているだろう。いつも言うが、これが週刊誌の難しさ。実のところ、私がこの原稿を書いている段階では、まだ第4戦も始まっていないし、次号の発売日はシリーズ終了後、1週間を優に超えてしまう。おかげで、この時期の原稿にはいつも頭を悩ませるのだ。
しかし今回は、別に書きたいことがある。古き良き南海ホークスの黄金期を支えた同僚がまた2人、この世を去った。
まず1964年シーズンで26勝(防御率2.40)を挙げ、
阪神との日本シリーズでMVPに輝いたジョー・スタンカ。10月15日、アメリカのテキサス州で亡くなった。87歳。米国出身の外国人投手で100勝(通算100勝72敗)したのはこのスタンカと、阪神ほかで活躍した
ジーン・バッキーの2人だけだそうだ。
スタンカで思い出すのは、やはり阪神との日本シリーズである。このシリーズ、彼は第1戦、3戦、6戦に先発。初戦は完封勝利を収め、3戦目こそ2回1/3を自責点4で負け投手になったが、6戦は再び完封勝ちし、対戦成績を3勝3敗とした。残り1戦。誰を先発させるか。
鶴岡(
鶴岡一人)監督の頭には、スタンカの顔がよぎったはずだ。しかし鶴岡監督は、シーズン中からスタンカに対し、日本人のように連投や救援を強いたことがほとんどなかった。そこへスタンカが自ら、手を挙げた。
先発を買って出た以上、気合は十分。だが体のほうは、その責任同様、鉛のように重かっただろう。スピードは出なかったが、代わりに変化球はよくキレた。特に日本へ来てから覚えた、落ちる球。要はフォークボールなのだが、背が高いぶん、非常に大きな落差があった。あの球を覚えてから、どんどん勝ち星が伸びていったと記憶している。その球は、日本シリーズでも有効だった。第7戦、3対0の完封勝利。このシリーズの最優秀選手に選ばれた。
体はアメリカ人だが、魂は日本人だった。私のことも、信頼して投げてくれたと思う。サインに対し、あまり首を振られた印象はない。
森下さんの思い出話をした、その日に……
ふだんは物静かな、ジェントルマン。しかし、いったんマウンドに上がると180度、人が変わる。カーッとなったときには、鬼と化した。
スタンカの場合、多少カッカしていたほうが、バッターが恐れるくらいの迫力が出るので、怒らせたまま放っておいた。冷静だと、どこかピッチングがおとなしくなってしまうのだ。カッカしているときのスタンカに対するバッターは、勇気が必要だっただろう。「ぶつけられるんじゃないか」とバッターが思うような雰囲気を、うまく出していた。
ビーンボールを投げるのもうまかった。胸元より上にビュンッと放るのだが、実際に当てたことはない。長年キャッチャーとして受けた中で、あれはNO.1だった。
一度、それで近鉄のチャックと取っ組み合いのケンカもした。まずビーンボールを投げられたチャックが、バッターボックスでスタンカに何か言った(英語なので、私には分からなかったが)。そのあと二塁打を打ったチャックが二塁ベース上から何かしら言葉を発するやいなや、スタンカが脱兎のごとくマウンドを駆け下りてチャックに向かっていき、大ゲンカになった。
体の大きな外国人同士の乱闘だったから、迫力があった。結局“ケンカ両成敗”で、2人とも退場処分を食らった。外国人選手同士の乱闘としては、球界初だったそうだ。
スタンカも、私のことを『ムース』と愛称で呼んでくれた。外国人選手とはどうしてもコミュニケーションが不足するから、できる限り遠征先では一緒に食事へ出掛けたものだ。懐かしいな。
スタンカの乱闘エピソードを思い出しながら、編集者に「スタンカと、サードの森下(
森下正夫)さんがよく火をつけたんだよ」と、話して聞かせた。森下さんが亡くなったのは、偶然にもその日(10月26日)だったそうだ。
森下さんは南海黄金時代の『100万ドルの内野陣』に割って入った、俊足好守の内野手。リーグ優勝した55年は、盗塁王にも輝いた。
森下さんがサードを守っていたときのことだ。ランナーをサードで刺そうと、ヒットのボールが外野から送球されてきた。森下さんがこのボールを落とし、それを見たランナーがホームへ走ろうとすると、なんと森下さん、ランナーをガッチリ脇に抱えて離さない。
当然、もめたが「プレーの延長上、なりゆきだった」と判断され、走塁妨害にはならなかった。そういうところが、森下さんは上手だった。あのころの南海は、良い意味でクセ者が多かった。
最後に、お2人のご冥福をお祈りし、ペンを置きたい。
PROFILE のむら・かつや●1935年6月29日生まれ。京都府出身。54年にテスト生として南海に入団し、56年からレギュラーに。78年にロッテ、79年に西武に移籍し、80年に引退。歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王に輝いた強打と、巧みなリードで球界を代表する捕手として活躍した。引退後は90〜98年までヤクルト、99〜2001年まで阪神、03〜05年までシダックス(社会人)、06〜09年まで楽天で監督を務め、数々の名選手を育て上げた。その後は野球解説者として活躍、2020年2月11日に84歳で逝去。